連載小説『ヒゲとナプキン』 #24
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子宮癌の手術を終え、無事に退院したジンから仕事に復帰したとのメッセージを受け、イツキは仕事終わりに新宿二丁目へと向かった。
クリスマスを控えた最後の金曜日。街頭はサンタクロースを模したコスチュームに身を包んだド派手なドラァグクイーンたちで溢れかえっていた。どこかのテレビ局だろうか。ダウンジャケットを着込んだ大柄な男性が、肩に担いだカメラでその様子を撮影している。
世間一般がイメージするLGBTとは、おそらくこういう人々なのだろう。同じ当事者でありながら、くたびれたサラリーマンにしか見えないイツキは、彼らの間を縫うようにしてジンの店へとたどり着いた。
「いらっしゃい」
「おう、生きてたか。この死に損ない」
「うるせえな。この男のなり損ない」
ジンはたいして表情も変えないまま反撃の毒霧を吹かすと、注文も聞かずにいつものゴッドファーザーを作り始めた。
店内には、「ホワイト・クリスマス」を歌うビング・クロスビーの甘い歌声が流れていた。イツキはこれまでのクリスマスにまつわる思い出を思い返してみたが、毎年これでもかと女の子が欲しがりそうなオモチャを届けてくれるサンタクロースに、好きな人に好きとさえ伝えられずにいた思春期など、切ない記憶が蘇っただけだった。そのぶん、サトカと過ごしたこの二年のクリスマスがいかに幸福に満ちたものだったのかが際立った。
「はいよ」
ジンが無造作に差し出したグラスを受け取ると、イツキは口元で少しだけ傾けた。アーモンドの香ばしさとわずかな甘みが口いっぱいに広がる。
「サトカ、戻ってきたんだろ」
「ああ」
「やり直せそうなのか?」
元カレとの浮気については、少しずつ消化しつつあること。サトカが求めているのは、結婚よりも出産だったこと。イツキ自身も血のつながりがある子を授かるには、八年もの断絶がある父親に精子提供を頼むしかないこと——ジンには相変わらず、自分の身に起こった出来事だけでなく、そのとき心に刻まれた負の感情まで、包み隠すことなく、すべてを伝えることができた。
ジンは自分用に注いだハイボールを時折、口に運びながら、じっとイツキの話を聞いていた。
「しんどいな」
「うん……」
「親父さん、か」
ジンとは高校生だった頃からの付き合いだ。父との軋轢については、当時からリアルタイムで相談していた。胃が何も受けつけなくなるほど憔悴していたあの頃、最も親身になって話を聞いてくれたのがジンだった。だからこそ、その父親に頭を下げる、それも「精子をください」などと言いに行くことが、どれだけ心をえぐられる行為であるかは、誰よりも理解してくれているはずだった。
「血がつながってないと……ダメなのか?」
ジンは完全に袋小路に入り込んでしまっているイツキの目先を変えるような問いをぶつけた。イツキはグラスを抱え込みながら、言葉を絞り出した。
「ダメ……ではないんだ。うん、ダメなんかじゃない。ただ……その、不安なんだ。ただでさえ婚姻関係が結ばれてない中で、ただでさえ法的に親子になれない中で、その上……血もつながってなかったら、親子だなんて言えんのかなって。『オレ、おまえの親父だぞ』って言えんのかなって」
イツキはグラスを両手で握り締めながら、肩を震わせている。
「怖えんだよ……」
カウンターに、雫が、ひとつ落ちた。
店の天井に取りつけられたスピーカーからは、ジョン・レノンが歌う、聞き覚えのあるクリスマスソングが流れていた。「強い人も、弱い人も、金持ちも、貧乏人も」という彼らしい慈愛に満ちたメッセージが胸に沁みた。彼は曲の中で何度も「争いは終わった」と繰り返していた。
「なあ、ジン」
「ん?」
「ひとつ聞いてもいいかな」
「ああ」
ジンはイツキに悟られないよう、目尻から垂れかけていた涙を指先でそっと拭った。
「子宮、取っただろ」
「うん」
「もう、これでおまえは物理的にも子ども産めなくなったわけだよな」
「まあ、そうなるな」
「寂しく、ないのか? うーん、寂しさとは違うな……何と言ったらいいのか……えーと、怒らないで聞いてくれるか」
「なんだよ」
「俺さ、ずっと自分に対して飲み込んできた言葉があるんだ。それは、頭の中でずっと浮かんでは消えて、その繰り返し。生産性……ないじゃん、俺ら。それってさ、やっぱり、その……“人間失格”なのかな」
オブラートをただの一枚も使わずに差し出された言葉に、さすがのジンも表情を強張らせていた。
「ふざけんなよ」
「あ、ごめん……」
「違う、おまえじゃねえよ」
「え」
「こいつは失格とか、こいつは合格とか、勝手に決めてんじゃねえよ」
ジンが吐き捨てるようにして口にした言葉に、イツキはただ「うん」と力なく相槌を打つことしかできなかった。
スピーカーから流れてくるジョン・レノンは、最後にもう一度「争いは終わった」とささやいたが、いまの二人にはまるで絵空事にしか聞こえてこなかった。
「メリークリスマス」
「メリークリスマス」
二人はカウンターの上で、伏し目がちにグラスを鳴らした。
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