新作小説『ヒゲとナプキン』 #3
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ソファで微睡んでいたイツキの耳に、リビングのドアが開く音が聞こえてきた。目を開けると、帰宅したばかりのサトカが立っている。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「あ、いや、大丈夫」
イツキはゆっくりと体を起こして、時計に目をやった。もう午後十時を回っていた。
「今日も遅くまで大変だったね」
「うん、ライターさんからの原稿がなかなか届かなくて入稿が遅れちゃって。あの人、腕はいいんだけど、どうにも筆が遅いんだよね」
「そっか。でも、あんま無理すんなよ」
そう言い終わると、リビングにグーッと間の抜けた音が響いた。イツキが腹をさすりながら照れた笑みを浮かべる。
「あれ、夕飯食べてないの? 駅前でたこ焼き買ってきたけど、一緒に食べる?」
そう言うと、サトカは手元に提げていたビニル袋をひょいと持ち上げてみせた。
「お、いいねえ。たこ焼きなんて、ひさしぶりだな」
「だよね。あまりにいい匂いだったから、思わず買ってきちゃった」
サトカはたこ焼きの入った袋とスマホをテーブルの上に無造作に置くと、ジャケットを脱ぎながらクローゼットのある寝室へと向かっていった。
「よいしょっと」
やや裾が広がった黒のスラックスと真っ白なブラウスというシンプルないでたちになったサトカは、リビングに戻ってくるなり、イツキのとなりに弾むようにして座り込んだ。イツキはというと、まだ寝ぼけているのか、ビニル袋からたこ焼きのパックを取り出したものの、止めてある輪ゴムを外すのにまごついている。
「もう、いいから貸して」
サトカからひったくるようにしてパックを奪い取られたイツキはバツが悪そうにビニル袋を覗き込むと、底に沈んでいた割り箸を取り出して、サトカの前に置いてやった。
「いっただきまーす」
二人は声を合わせると、まだほのかに湯気が立っている小さな球体にかぶりついた。
「サトカも何も食べてなかったの?」
「ん、ああ、編集部でちょこっとは食べたんだけどね。なんかお腹すいちゃって」
そう言うと、サトカはテーブルにあったリモコンに手を伸ばした。画面に映し出された女性キャスターが、神妙な顔つきで煽り運転による死亡事故について伝えている。
「こへ、ひほいよらあ。ろういう気持ちでやっへんらろ」
「もう、口に入れたまましゃべらない。いつも言ってるでしょ」
イツキよりも二歳上のサトカは、恋人でありながら姉のような顔を見せることがあった。サトカ自身が姉のように振る舞っているというよりは、実際にサトカと同じ年齢の姉を持つイツキが、サトカの姉さん女房的な面を引き出しているのかもしれない。
〈続いてのニュースです。民自党・杉山美緒議員による「LGBTは生産性がない」といった発言を掲載した『満潮45』に抗議する人々が、発行元である満潮社の前に集まり——〉
サトカはあわててリモコンに手を伸ばすと、「4」「5」「6」と適当にチャンネルボタンを押し続けた。お笑い芸人がひな壇に座るいつもの風景にホッと胸をなでおろしながら、再びリモコンをテーブルに置いた。
「ごめん、なんか……」
口の中からすっかりたこ焼きがなくなっていたイツキの言葉は、必要以上にはっきりとリビングに響いた。サトカは箸を止め、ひょいと顔を上げて、イツキのほうに向き直った。
「ねえ、イツキ」
「ん?」
「あのさ……」
「うん」
「前歯に青のりついてるよ」
「え?」
イツキはあわててスマホに手を伸ばし、カメラ機能を起動させようとした。
「ふふふふふ。ウソーン」
「は、ちょっと何だよ、それ。いまの完全に『愛してるよ』とか言ってくれるパターンじゃないの?」
「わあ、『愛してるよ』って、何それ。だっさ。イツキって、やっぱロマンチストだよね」
「うるせえ、うるせえ」
耳たぶを少しだけ赤く染めたイツキは、すっかり冷めてしまったたこ焼きを箸でつまむと、無理やり口にねじ込んだ。たいして噛まずに一気に飲み込んだせいか、のどに詰まってむせ込んだ。
「ちょっと、やだ。大丈夫?」
サトカはイツキの背中をさすりながら、青のりのついた前歯をむき出しにして笑い転げていた。
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※今回、トップ画を作成してくださったのは、やそきち@NP英文翻訳さんです。やそきちさん、ありがとうございました!
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