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連載小説『ヒゲとナプキン』 #9

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 木製の扉に取りつけられたベルが、勢いよく音を立てた。

「いらっしゃいま……なんだ、おまえか」

 ジンの声も聞こえない様子でイツキはいつもより大股で店内に入ってくると、そのまま無言でカウンター席に腰を下ろした。

「外、そんなに寒いのか?」

 カウンターの上で両手を組んだイツキの指先は、かすかに震えている。何も言葉を発しようとしない客を前に、ジンはいつもと同じ“ゴッドファーザー”をつくり始めた。

「はいよ」

 イツキはジンに差し出されたグラスを口元に引き寄せた。アルコール度数が決して低い酒ではないが、イツキは構わず喉を鳴らす。再びカウンターにグラスが置かれると、琥珀色の液体はほとんど消費されていた。

「おい、だいじょうぶか? 何があったんだよ」

 ジンの問いかけに応えることなく、イツキは俯いたまま、ただ一点を見つめている。ジンは仕方なく、イツキが訪れるまでそうしていたように空のグラスを拭き始めた。

「バレた」

 イツキがぽつりとつぶやいた。

「え?」

「地元の、それも同じ高校だったやつに遭遇しちゃったんだよ……」

 消え入るような声に、ジンは事態の深刻さを察知した。イツキは、ぽつり、ぽつりとタクヤに連れられて行った飲み会での一部始終を話し始めた。

「そっか」

 ジンがかけた言葉は、それだけだった。それでもイツキは少し落ち着いたのか、グラスに残っていたわずかなカクテルを、今度はゆっくりと喉に流し込んだ。

「俺、どうなっちゃうのかな……」

 いまの会社に採用された時点では、すでに乳房も切除し、ヒゲも生やしていた。だが、あくまで戸籍上は女性。住民票や健康保険のこともあり、人事部だけには戸籍上の性別を報告していた。嘘をついていたわけではない。クビになることはないはずだ。

 ハリさんやタクヤなど、職場の同僚たちはどうだろう。これまで男だと信じて疑わなかった相手が、じつは女だった。騙されたと怒るだろうか。もうメシにも誘ってもらえなくなるだろうか。もしかしたら、ひとことも口を聞いてくれなくなるかもしれない。少なくとも職場で孤立することは覚悟しておく必要があるかもしれない。

 指先の震えが止まらないイツキを前に、ジンはグラスを拭く手を止め、しばらく考え込んだ。

「おまえは、おまえなんじゃないの。何も変わらないよ」

 両手で包むように持ったグラスをじっと見つめながら、イツキはつぶやいた。

「うん、そうだな……だと、いいけど」

 そう広くはない店に、しばらく静寂が訪れた。店内の壁に貼られたポスターの中では、フレディ・マーキュリーが熱くシャウトしている。ジンはいつの間にか空になっていたグラスを引き取り、二杯目のカクテルをつくり始めた。

「そうだ、あのさ……」

 再びイツキの前にゴッドファーザーを差し出したジンが、めずらしく口ごもっている。

「何だよ」

「うん、その……子宮取ることになった」

「はっ?」

 狭い店内には似つかわしくないボリュームで、イツキが驚きの声を上げた。

「だって、おまえずっと、『俺は男になりたいわけじゃない、ありのままの自分で生きてく』とか言ってたじゃないか」

「うん、そうなんだけどさ、癌になっちゃって。子宮癌」

「え、あ……ごめん」

 熱くなって思わず身を乗り出していたイツキは癌という言葉に打ちのめされ、力なく背もたれに寄りかかった。

「それで……だいじょうぶなのか?」

「ああ、わりと初期だったから命に別条はないみたい。先生からは切らずに治す方法もありますよと言われたんだけどさ、まあ子宮なんて今後も使うことないだろうし、生理なくなるならそれはそれでラクかなと思って、近いうち手術して摘出してもらうことにした」

「そっか」

 ジンの肉体から、子宮が消える。そうなれば、ジンが望むかは別にして、男性へと戸籍を変更することも容易になる。いつもとなりにいたはずのジンが、急にどこか遠くへ行ってしまった気がした。

「それで、長いこと入院するのか?」

「本当は十日間くらいと言われてるんだけど、ずっと店閉めとくわけにもいかないから、先生にはなんとか一週間で退院させてくれって言ってる」

「そっか、お見舞い行くわ。しこたまエロDVD持って」

「やめろよ、看護師さんに怒られるんだから」

 交わされているのは、いつもと変わらぬ他愛ない会話だった。だが、イツキはどこかで、たがいに仮面をつけたまま会話をしているような居心地の悪さを感じていた。

 なぜ、「癌が怖い」と素直に言わないのか。喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。ジンのことだ。肉体的にも男性になることを切望していたイツキに先駆け、自分だけが子宮を取り除くことになった後ろめたさを感じているのだろう。

 ならば、自分が仮面の下に隠し持っている感情は何だ。あまりに答えが明白で、反吐が出そうになった。親友が癌を患った。そうした状況で自分は何ということを考えているのだ。イツキは仮面の下で、そっと羨望という感情を噛みつぶした。


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