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連載小説『ヒゲとナプキン』 #22

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「ねえ、イツキ。ちょっと待ってよ」

 二、三メートル先を行くイツキを、サトカが白い息を吐き出しながら足早に追いかける。パンプスのヒールがアスファルトを叩く音に、イツキが我に返った。

「あ、ごめん……考えごとしてたら、つい」

 高野に相談に乗ってもらった二人は、クリニックを出てからほとんど言葉を交わさずにいた。イツキはコートのポケットに両手を突っ込んだまま、ずっと眉間にしわを寄せている。二人はいつのまにか代々木公園まで歩いてきていた。

「イツキ、やっぱり話してほしい」

「え?」

「八年前、お父さんと何があったのか」

「ああ……」

 表情を曇らせるイツキに、サトカが畳み掛けた。

「二人の間に何があったのか、これまでは立ち入らないようにしてきた。だけど、こういう状況になったら話は別だよね。私にも聞いておく権利はあるんじゃない?」

 サトカの真剣なまなざしに射すくめられたように、イツキは「ふうっ」と大きく息を吐いて、近くのベンチに腰を下ろした。サトカが無言でそのとなりに座る。

 冬の公園は、鉛色の分厚い雲に包まれていた。二人が座るベンチのすぐそばでは、ダウンベストを着た父親らしき男性が、幼稚園に通うくらいの男の子に野球を教えていた。父親が投げる山なりのボールに、ジャンパーを脱ぎ捨ててTシャツ一枚になった男の子が、プラスチック製のバットをブンブン振り回している。だが、ちっともボールに当たらない。時折、父親が投球を中止しては息子のもとに歩み寄り、「いいか、バットの構え方はこうだぞ」と教えている光景が、本来なら微笑ましかった。

「最後に親父としゃべったのは、俺の二十歳の誕生日だった——」

 イツキは野球に興じる親子に視線を注いだまま、父との関係について語り出した。

 イツキが性別違和を感じ始めたのは、幼稚園の頃だった。園に指定された制服のスカートを穿かされそうになると、「こんなのイヤだ」と泣き出した。母のフミエが無理やり穿かせようと追いかけると、イツキはきまって父のもとに逃げ込み、太ももにしがみついた。

「まあ、そんなに無理強いしなくても」

 父のシゲルはいつもニコニコと笑顔を浮かべながら、イツキを守ってくれた。「もう、お父さんは本当に甘いんだから」と口を尖らせるフミエの顔を、イツキはいまでもよく覚えている。

 姉のコズエが愛想のない子どもだったこともあったのだろう。シゲルは、次女のイツキを溺愛していた。子どもながらに依怙贔屓されていることは感じ取っていたが、肝心のコズエが特に気にしている様子もなかったので、イツキは構わず父に甘え続けた。父娘の蜜月は、中学生になるまで続いた。

 中学校に上がり、再び制服を強いられる生活が始まると、イツキは学校を休みがちになった。無理に行かせようとする母に対して、このときも父は「しばらく様子を見てみよう」と寄り添ってくれた。

 だが、シゲルの愛情が“娘である”自分に向けられたものだと感じれば感じるほど、胸の中で誰にも伝えることのできない罪悪感が募っていった。自分はいつまでもシゲルの“娘”ではいられないのではないかという底知れぬ不安が、自分でも制御できないほどに膨れ上がっていった。いつしか、父と距離を置くようになった。シゲルがただの反抗期だと捉えていることに、ひとまずの安堵と、一抹の寂しさを感じていた。

 高校三年生のとき、人生で初めてカミングアウトした。相手は、姉のコズエだった。

「ああ、そんな気がしてた」

 ずいぶんと薄味のコメントだったが、ありのままの自分を受け止めてもらえたことがうれしくて、「身内にだけは理解されたい」という欲求が高まっていった。機を見て両親にも伝えるつもりでいたが、コズエには止められていた。

「お母さんはともかく、お父さんにはやめときなさい。『溺愛してた娘が、じつは息子でした』なんて、お父さんには受け止めきれるはずないんだから」

 コズエの言うことは幼い頃から的確だった。だが、このときばかりは「見当はずれだ」と内心で笑っていた。イツキには、シゲルに愛されてきたという自負があった。いつも寄り添ってくれたという安心感があった。きっと受け止めてくれるだろうという根拠のない自信があった。

 二十歳の誕生日を迎えた日のことだった。決意を固めて、「お父さん、話があるんだ」とリビングに乗り込んだ。先にカミングアウトを済ませていた母のフミエが見守るなか、震える声で気持ちを伝えた。

「ずっと苦しかった……。今日から息子でいさせてほしい」

 ダイニングテーブルを挟んで向かいに座るシゲルは、拳を握りしめていた。その拳は、かすかに震えていた。

「おまえは……娘だ」

 すぐには受け入れてくれないシゲルの気持ちも、わからないではなかった。だが、自分でもさんざん悩み、何かの思い過ごしではないかとインターネットなどで調べてみたが、やはりトランスジェンダーという心と体の性別が一致しない境遇だと確信するに至ったことを涙ながらに語った。

 それでも、シゲルの心は頑なだった。

「お父さんは子育てを間違えたみたいだ。少し甘やかしすぎたな……。おまえも頭を冷やしなさい」

 愛だと信じていた。だけど、それは、どうやら勘違いだったみたいだ。それとも、性別が変わってしまうと、途端に愛されなくなるのかもしれない。

 父の、愛が、消えた。

 失意のままに部屋へと戻った。シゲルは、その日から目を合わせてくれなくなった。イツキからも声をかけづらくなった。食卓には沈黙が流れるようになった。数ヶ月後、イツキは家を出た。

「それ以来、初めて会ったのが姉ちゃんの結婚式だったんだ。去年の夏にあった」

「うん」

 サトカは指先までピンと伸ばした手のひらを膝に置いて、短い相槌を打った。

「ビックリしただろうな……。七年ぶりに会った娘に、ヒゲが生えてるんだから」

「うん……」

「親族だからさ、同じテーブルなんだよ。一応、目が合ったから軽く会釈してみた。親子なのにね。そしたら、向こうも小さな声で、『おお』って」

「それで?」

「それだけ」

「え」

「それだけだよ。式の間中、会話なし。母さんとは少ししゃべったけどね」

 イツキはベンチにもたれながら、自嘲気味に笑ってみせた。

 サトカは頬の内壁を舌でなぞりながら、しばらく黙り込んだ。父を“失った”イツキが過ごしてきた八年という年月に思いを馳せ、そして彼らの関係を、自分と父親の関係に重ね合わせた。

 湯河原の実家に戻っている間、父の宗弘とは何度も話し合った。「イツキと生きていきたい」と伝える娘に、「跡継ぎはどうするんだ」と拒む父。何度も意見をぶつけ合ったが、結論は出ないままだった。

「どうするの?」

 サトカに聞かれずとも、クリニックを出たときから、ずっとイツキの頭の中を支配していた問いだった。ずっと考え続けても、答えの出ない問いだった。

「わかってるよ!」

 思わず大きな声が出たのは、苛立ちからだった。血のつながった子どもを生むには、父であるシゲルに精子提供を頼むしかない。だが、八年間もの断絶が続く相手に、はたして頭を下げることができるのか。そこに自信がないからこそ、答えを急かされて心が波打った。

「そっちはどうなんだよ」

「そっち?」

「ご両親、反対してるんだろ。跡継ぎが必要だから、俺じゃダメなんだろ」

 目を見開いて驚くサトカに、イツキは荒々しく言葉をぶつけた。

「先週、わざわざご両親揃って東京にいらしたよ。『娘と別れてくれ』って」

「え、そんな……聞いてないよ、私。イツキ、ごめん。私——」

 突然のことに気が動転するサトカを横目に、イツキはかえって落ち着きを取り戻した。

「いいよ、サトカのせいじゃない」

「でも……」

「そして、ご両親のせいでもない」

「えっ」

「ぜんぶ俺のせいだから。俺のカラダが悪いんだよ」

「イツキ……」

 唇を噛みしめるイツキの足元に、鮮やかなピンク色のゴムボールが転がってきた。

「やったあ」

「おお、すごい、すごい」

 二人が座るベンチから少し離れた場所で野球に興じていた親子。息子の振ったバットが、ようやくボールを捕らえたようだ。

「すみませーん」

 ボールを受け取りに、親子揃って駆け寄ってきた。寒さで少しだけ鼻を赤く染めた父と、青っ洟をはみ出させる息子。誰に説明されずとも、くっきりとDNAの存在を感じさせるほど相似形の顔を並べる二人に、イツキは張りつけたような笑顔を浮かべながらボールを手渡した。

「ありがとうございます」

 父親に促され、ぺこりとお辞儀をする男の子。再び駆け出していった息子の後を追うダウンベストを着込んだ父親。彼らを見送るイツキの頬に、ひと筋の涙が伝い落ちた。

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