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連載小説『ヒゲとナプキン』 #5
【全文無料公開】
新宿二丁目の雑居ビル。仕事帰りのイツキは階段で三階まで上がると、木製の重たい扉に少しだけ体重を預けるようにして、ぐいと押し開けた。扉に取りつけられた鈴がチリンチリンと音を立てる。
「あら、いらっしゃい」
最初に声をかけたのはバーデンダーのジンではなく、客としてカウンターに腰掛けていたジンの母親だった。
「あ、おばさん」
「だから、おばさんじゃなくて『ノブコさん』にしてと、いつも言ってるでしょ」
「あ、すみません……ノブコさんもいらしてたんですね」
ノブコはカウンターの上に置かれたグラスの中身を最後まで飲み干すと、となりの席に置いていたショルダーバッグを手早く肩にかけた。
「うん、だけど、もう帰るわ。男同士……あれ、女同士なのかしら、よくわからないけど、こんなおばさんがいたんじゃ話しづらいこともあるでしょ」
ノブコは自分の席の背もたれに掛けてあった黒のジャケットを羽織ると、金木犀の香りを思わせるような香水を漂わせながら扉の前までやってきた。
「じゃあね」
ポンとイツキの肩を叩いて出ていくと、ドアの鈴がもう一度、チリンチリンと鳴った。
「ありがとうございましたぁ……って、あいつ、またツケで飲んで帰りやがった」
「相変わらず、イケてるお母さんだよな」
カウンターの内側で苦笑いを浮かべるジンを横目に、イツキはさっきまでノブコが座っていたカウンター席に腰掛けた。ジンは特にオーダーを聞くでもなく、バーボンにアーモンドの香り漂うアマレットを注いでいる。まもなく、イツキが最も好きな映画『ゴッドファーザー』と同じ名を持つカクテルが差し出された。サトカに教えられて以来、イツキは必ずと言っていいほどこのカクテルを飲んでいる。
「まったく、子育てが終わったからって気楽なもんだぜ」
「そうか? 気楽な親子関係も、いいもんだと思うけどな」
ほんのりと甘みを感じさせる濃厚な液体がイツキの喉を湿らせる。体内の血のめぐりが、わずかながら早まったように感じられた。
「どうしたよ。なんだか浮かない顔だな」
「うん……そうかな」
「サトカと何かあったか?」
「いや、何もないよ」
イツキは俯きながら、ハリさんやタクヤとの昼食を思い返していた。
(やっぱりオランダの飾り窓とかですかね)
数年ぶりに口を突いて出た嘘が、アルコールがゆっくりと回り始めたイツキの頭の中を荒々しく駆け巡る。
「だったら職場か?」
イツキは頭を左右に振ると、しばらく押し黙った。
職場のせいにはしたくなかった。ハリさんもタクヤも、決して悪い人たちではない。たしかに、いまの職場に居場所を見出せているとは言い難い。だが、自身の境遇を公表していない以上、それは当たり前のことだった。今後もカミングアウトするつもりはないのだから、職場を変えたところで状況が好転するはずもない。結局は、職場に居場所を見出せていないのではなく、この社会そのものに居場所を見出せていないのだという、いつも通りの結論に行き着くしかなかった。
「そんなにウジウジしてんならさあ、とっととカミングアウトしちゃえばいいじゃん」
ジンは自分用につくったハイボールのグラスを傾けながら、イツキにアドバイスともつかない言葉を投げかけた。左右の耳には、十字架を模した小さなピアスが光っている。
ジンは命の恩人だった。幼少期からスカートを履くことに抵抗を覚え、生理が訪れるたびに己の肉体に対する嫌悪から嘔吐を繰り返してきたイツキの手首には、幾筋もの深い傷が残っている。思い悩んだ思春期にすがるような思いで徘徊したインターネット。そこで出会ったのが、ジンが書くブログだった。イツキがまだ“女子高生”だったときのことだ。
『ジンのポジティブ日記』と題されたブログには、自分と同じトランスジェンダーという境遇にもかかわらず、本名からひと文字を取って「ジン」と名乗り、十代のうちから周囲にカミングアウトし、親にも友人にも受け入れられて幸せそうに過ごす彼の日常が綴られていた。当時、死ぬことばかり考えていたイツキにとって、ジンの存在はにわかには信じられないものだった。それと同時に、その存在は目にしたくないものでもあった。
(なぜ同じ境遇なのに、こいつはこんなにも前向きなのか……)
おのずと相対化してしまい、ただでさえ惨めな自分が、さらに惨めに思えた。だからこそ二度とこのページには近づくまいと心に決めた。しかし、そこから二日が経ち、三日が経つと、気づけば検索ページに「ジンのポジティブ日記」と打ち込んでいた。両親にも友人にも自身の境遇を打ち明けることができていなかったイツキにとって、唯一の理解者になってくれるかもしれないという淡い期待を抱いてのことだった。
メールでコンタクトを取り、そこからジンの住む東京まで会いに行った。短く刈り込んだ髪の毛を栗色に染め、屈託なく笑う「ジン」は、男なのか女なのか、判別がつかなかった。もっと正確に言うならば、そんなことはどうだっていいと思わせるほど、人としての魅力に溢れていた。
当時、女子高生だったイツキには、女性として生きていく未来も、かといって男性として生きていく未来も見えていなかった。「男」と「女」しか存在しないと言われるこの社会に、自分のような人間が存在することは許されないのだと思っていた。そんなとき、「男でも女でもない」という宙ぶらりんな性別を隠そうとすることなく、みずからの人生を力強く生きるジンに出会った。「男」にもなれず、「女」でもあれない人生に何の希望も見出だすことができずにいたイツキに、「こんな生き方もあるよ」と第三の未来を提示された気がした。
それ以来、カッターナイフを手首に当てることをしなくなった。自分自身がジンのように振る舞えるはわからない。もっと言えば、ジンのようになりたいのかもわからない。それでもジンとの出会いによって、イツキは未来を生きる自分にも何らかのカタチを見つけられるかもしれないという可能性をわずかに感じ取ったのだった。
それから十年を超える月日が流れた。イツキは男性として生きる道を選んだ。乳房を切除し、男性ホルモンを投与し、ヒゲをたくわえるようになった。それでも男性になれたとは言えず、いまだ自分なりのカタチを見つけられずにいる。
ジンはあの頃のままだ。男でもなく、女でもない「ジン」というキャラクターを確立させ、周囲からありのままの自分を愛されている。もちろん、本人にもそれなりの苦悩や葛藤があることは知っている。だが、周囲からの視線を気にかけ、不安に怯えて生きる自分と比べれば、その存在は格段に眩しく見えた。
「とっととカミングアウトしちゃえばいいじゃん」
ジンの言うとおりかもしれない。それができたら、長年抱え続けてきた荷物からようやく解放される気もする。しかし、その先の人生には何が待ち構えているのだろうか。トランスジェンダーという名称が知られるようになったのはここ数年のことだ。言ってしまえば、世間から見たイツキは“オナベ”だった。そんな境遇を公表すれば、いまのようにサラリーマンとして働くことは難しくなるだろう。ジンのように水商売で生計を立てていくしか道はなくなる。イツキが思い描く“カミングアウト後の人生”には、自分のありたい姿を重ねることができなかった。
「いいんだよ。俺はおまえと違ってフツーに生きたいんだから」
ゴッドファーザーの力を借りて、イツキは語気を強めた。カウンター越しにその言葉を耳にしたジンは、自分の生き方を否定されたような気がして、めずらしく棘のある言葉を返した。
「じゃあさ、いまのおまえはフツーの生活が送れてるって言えるのかよ。おまえの望んでるフツーは、そうやって息を潜めて、ビクビクしながら生きてくことなのか?」
耳を塞ぎたくなるような正論が、イツキの呼吸を荒くする。
「もういい。帰るわ」
イツキは財布から取り出した二千円を叩きつけるようにしてカウンターに置くと、脇に置いていたカバンを手にして扉を開けた。チリンチリンという音色。さらにはジンが無表情のまま、「ありがとうございました」とつぶやく声が背中に聞こえる。
道路に出ると、火照った顔に夜風が冷たく吹きつけた。イツキは短く整えられた顎ヒゲをひと撫ですると、背中を丸めて歩き出した。
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