連載小説『ヒゲとナプキン』 #23
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ハリさん行きつけのおでん屋で卓を囲むと、タクヤが神妙な面持ちで切り出した。
「じつはご報告がありまして……」
「なんだ、おまえ。横領でもしたか!」
冴えないジョークで話の腰を折るハリさんにかまわず、タクヤが続けた。
「あの、僕……このたび、結婚することになりまして……」
「えっ」
ハリさんより大きな声を出したのは、イツキだった。
「だって、おま……」
タクヤからは二週間に一度のペースで合コンに誘われていた。まさか、そんな男が結婚を考えているとは夢にも思っていなかった。
「まあ、皆まで言うなって。俺だって、べつに結婚するつもりはなかったんだけど、ほら、まあ、デキちゃったもんだから」
苦笑いを浮かべるタクヤに、からしをたっぷりと塗ったちくわぶを頬張っていたハリさんが目を見張った。
「そうなのか。そりゃあ、めでたいな。おめでとう。まあ、飲め飲め」
そこから芸能リポーターのように、根掘り葉掘りと二人の馴れ初めや相手の容姿などに突っ込むハリさん。上司の追求をのらりくらりとかわすタクヤ。熱燗でほんのりと頬を赤く染めたイツキは、そんな二人のやりとりをぼんやりと眺めていた。
つい最近まで見知らぬ女の子を口説いていた。そんな男が、結婚するという。ずいぶん、たやすくできるものなんだな、結婚って。自分がそこにたどり着くには、手術まで受けなければならないことを思うと、タクヤには何の非もないことはわかっていても、無性に腹が立ってきた。
「でもさ、結婚しようが、これからもチャラチャラと遊び続けるんだろ」
それまで下卑た笑顔を浮かべてリポーターを気取っていたハリさんの表情が凍りついた。ところが、当のタクヤは真顔になってイツキのほうへと向き直った。
「おまえの言う通りだよな……」
急にしおらしい態度で来られるとは思っていなかったイツキは、当然、面食らった。
「俺も結婚するって決まってさ、派手に遊ぶ生活もこれで終わりにしなきゃなと思ったけど、本当にやめられるのかなって、やっぱそこは不安に思ったわけよ」
「ああ」
「だけどさ、エコー写真っていうの? それを見たとき、ああ、これが俺の子かあって。なんか感動したんだよね。まだ豆粒くらいの大きさだし、男の子か女の子かさえわからないけど、でも、なんつーか、愛しいなあって」
軽薄を絵に描いたような男が初めて見せるメルヘンチックな表情に、イツキは胸を痛めた。ずいぶんと失礼なことを言ってしまったという後悔の気持ちが半分。そして、我が子という存在はこんなにも人を変えてしまうのだという事実を突きつけられたショックが半分だった。
「まあまあ、とにかくめでたいじゃないか。よし、今夜は飲もう。とことん飲もう」
場の空気を取り戻そうとしたのか、それともただタクヤの報告にかこつけて酒が飲みたかっただけなのかはわからないが、ハリさんは大声で店員に熱燗を追加で注文した。
「ハリさんこそ、奥さんとどうなんすか?」
これ以上、無粋な突っ込みを受けてはたまらないと思ったタクヤが、酒を待つ間に逆襲に出た。てっきり照れ笑いでも浮かべるかと思いきや、ハリさんは「ハァ」とキャラに似つかわしくない深いため息をついてみせた。
「なんすか、『ハァ』って。うまくいってないんすか?」
ハリさんは手元にあった猪口を口まで運んだが、すでに杯が乾いていたことに気がついて机に戻した。次に徳利を持ち上げて振ってみたが、こちらも空っぽだった。
「ハァ」
もう一度、深いため息をつくハリさんに、タクヤとイツキは顔を見合わせた。
「どうしたんすか、ハリさん。よかったら俺らで話聞きますよ」
ちょうどいいタイミングで酒が運ばれてきた。タクヤが「あちっ」と声を漏らしながら、ハリさんの猪口に熱い酒を注ぐ。
「おまえらに何がわかるってんだよ……」
藪から棒にやさぐれた台詞が飛び出し、タクヤとイツキは再び顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
「おまえら、結婚には愛があると思ってるだろ」
「はい」
「ええ、まあ」
二人の返答を聞いたハリさんは、タクヤが注いだばかりの酒を一気に呷った。
「あるんだよ……最初はな」
ハリさんの声のトーンは、まるで別人かと思うほど、重たく、湿っぽいものだった。
「それがよ……いまじゃすっかりATM扱いだ。家に帰ったって『お疲れ様』のひとことも言われねえ。たまの休みに家でゴロゴロしてりゃ、そりゃあもう鬱陶しそうな視線を向けてくる」
眉毛を八の字にしたハリさんは、ついに手酌で飲み始めた。適度に温められた日本酒に救いを求めた中年男は、背中を丸めて寂しそうにつぶやいた。
「何だろうな……夫婦って」
タクヤも、イツキも、たった三十年足らずの人生では、こうした場面でかけるべき言葉をまだ持ち合わせていなかった。仕方なく、上司にならって背中を丸めて日本酒を呷った。
せっかく結婚の報告をしたというのに、いつのまにか上司の愚痴を聞かされるタクヤが気の毒ではあった。だが、ハリさんの夫婦関係もまた不憫に思えた。それとも、夫婦とはおおよそ、こんなものなのだろうか。たいしたサンプル数を持たないイツキには、判断するための材料がなかった。
だが、いずれは自分もこうした成れの果てを迎えるために、これまでさんざん悩み、傷つき、涙を流してきたのかと思うと、自分自身がいちばん不憫に思えるのだった。
「離婚しないんすか?」
銀色のおたまで玉子をすくいながら、タクヤが核心に迫った。追い打ちをかけるような質問をぶつける同僚をイツキは目で制したが、タクヤの目はすっかり座っているようだった。
「まあ、考えないわけじゃないさ。だけど……」
ハリさんの手酌のペースが上がっていく。
「子どもがな」
笑顔が、ほんのり、戻った。
「中二の娘、ありゃあ妻に似て、俺のこと毛嫌いしてんだ。まるで汚いものを見るような目で俺のことを見てくる。だけど、息子がいてな、小四の。こいつが、まあかわいくて」
夫婦関係についてこぼしていたのとは別人のように相好を崩すハリさんに、タクヤがすかさず切り込んだ。
「てことは、奥さんに似てるんですね」
「バカヤロウ。それが俺にそっくりなんだよ。まあ、ずんぐりしてて、きっとクラスの女子にはイケてないとか思われてるんだろうけどな。そういうとこも俺そっくりだ」
似ていると、かわいいのか。そう感じるのが、親の情というものなのか。イツキは数日前に公園でボールを拾いにきた親子のやけにそっくりな顔を思い出した。
「おい、ヤマモト。おまえ、聞いてるのか」
「あ、はい……すみません」
いつのまにか、ハリさんはすっかり上機嫌になっていた。
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