連載小説『ヒゲとナプキン』 #16
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エレベーターが開くと、ナースステーションは目の前にあった。イツキは中を覗き込み、奥にいた看護師に友人の名前を告げた。教えられた通りに右に曲がると、伝えられた部屋番号はすぐに見つかった。廊下に掲げられたネームプレートには、「奥原仁美」とあまりに無防備に本名が晒されていた。
「失礼しまーす」
廊下から部屋の中に向かって囁やくように声をかけると、手前のベッドを覆っていたクリーム色のカーテンが開かれた。中から見慣れた顔がひょいと現れる。
「お、来たな」
「なんだ、元気そうじゃん」
イツキは壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げてベッドの脇に腰を下ろすと、ジンに顔を近づけて声を潜めた。
「やっぱり女性と相部屋なんだな」
「そうなんだよ……かといって個室にすると高くつくしな。手術のとき着せられた服なんて、かわいいピンク色だぜ」
「くっくっく。それは見たかったな。で、術後の経過はどうなの?」
「最初の数日は痛みもあったけど、もう平気かな。ヒマだし、早く退院したいわ」
いつものように軽口を叩くジンがいた。笑うとおでこにしわが寄る顔も、ハスキーな声も、いつものジンだ。だが、目の前にいる親友には、もう子宮がない。
「なあ」
「ん?」
「おまえさ……本当にジンか?」
「は? おまえ、何言ってんの?」
ベッドの上のジンが、見舞いに来たイツキの顔を心配そうに覗き込む。
「だってさ、おまえ……もう子宮ないんだろ?」
「はあ?」
「いや、ごめん。その……もう女体じゃないんだなと思って」
イツキの胸中を察したジンは、眉間のしわをほどいて笑みを浮かべた。
「まあ、チンコが生えてきて男の身体になれたわけでもないし、子宮を取ったと言っても、自分では見えないし。あんま実感ないよ」
「そっか」
「まあ、今後は生理の心配しなくていいらしいから、それはラクだなとは思うけど」
「うん……」
予期していた返答とはずいぶん距離があったのか、イツキはわかりやすく肩を落とした。
「で、おまえのほうはどうなんだ。サトカ問題。詳しく聞かせてもらおうか」
「ああ……うん」
イツキはますます肩を落としながら、この一週間に起こった出来事について話し始めた。会社でアウティングされていたが、結果的には受け入れてもらえたこと。サトカがイツキとの未来が見えないことに思い悩み、他の男と浮気をしていたこと。湯河原で温泉旅館を営むサトカの両親から「身を引いてほしい」と伝えられたこと。
「なんか一気にいろんなことが起こりすぎて、俺、もうどうしたらいいかわからなくて」
いまにも泣き出しそうな顔で語るイツキを前に、ジンはじっと腕組みをしながら話を聞いていた。
「サトカはさあ……気づいてほしかったのかもな」
「えっ」
「自分から面と向かって切り出せば、おまえを傷つけることになる。だけど、もうどうにも自分だけじゃ抱えきれなくなってきた。だから、おまえに気づいてほしかったんじゃないかな」
「だって、そんな……」
「LINEのメッセージって削除できたよな。しかも、やりとりしてる相手の名前も、自分で好きなように編集できたはずだろ。本当に隠したかったら、そこまでやるんじゃないかな」
「え、でも、パスワード……」
ロックを解除するための六桁の数字は、サトカの誕生日とイツキの誕生日の組み合わせだった。そう考えれば、たしかにサトカの「気づいて」というメッセージにも感じられないこともなかった。
「で、おまえはどうしたいんだよ」
「え?」
「いや、だから、おまえはどうしたいんだよ」
イツキはその言葉に思わず息を飲んだ。この一週間、あれこれと思考を散らかしてきたはずなのに、「自分はどうしたいのか」という最も重要な問いだけは、なぜか頭に浮かんでこなかった。
「おまえの性別とかはひとまず置いといてさ、彼女に浮気されたんだろ。ムカつくじゃん。それでも一緒にいたいのかって聞いてんだよ」
「いたい」
「ずいぶん食い気味だな。もうちょっと迷えよ」
「いたいよ。俺、それでもサトカといたい」
イツキの表情には、気の毒に思えるほどの切実さが滲んでいる。
「だったら答えは出てるだろ。メッセージ送るなり、湯河原まで迎えに行くなり、さっさと動けばいいじゃん」
「うん、まあそうなんだけど……」
今度はイツキが腕組みをする番だった。たしかに浮気を許し、サトカへの想いを伝えれば、ヨリを戻すことは可能かもしれない。だが、戻してどうなるというのか。一時的に幸せな時間を取り戻すことはできても、二人で歩む道には、やがて「結婚」という大きな壁が立ちふさがることになる。
「何だよ、まどろっこしいやつだな」
「結局さ、ゴールの見えないレースには参加しないほうがいいんじゃないかって思うんだ。そもそも参加する資格なんてないのかもね。俺みたいなやつには」
「まあ、そこまで悲観的に——」
ジンは親友の目が潤んでいるのに気づき、言葉を止めた。気休めのような言葉は、かえってイツキを傷つけてしまう気がした。
「そんなにサトカのこと想ってんのか」
「うん」
「だったらさ……うん、だったら結婚すればいいじゃん。覚悟を決めて、サトカと家族になればいいじゃん」
「え、どういうこと? だって俺——」
「手術すりゃいいだろ。おまえだって子宮取っちゃえば、男になれるんだから」
豆鉄砲を食らった鳩のような顔で驚くイツキを尻目に、ジンが続ける。
「おまえが手術までして性別を変える気がないことはよく知ってるよ。だけどさ、そこへのこだわり捨てないと、サトカと一緒になれないんだろ。そこまで彼女と一緒にいたいなら、手術受けたらいいじゃん」
「おまえみたいに……運良く癌になれたらな」
「おい、殺すぞ」
「あ……ごめん。そういうつもりじゃ」
カーテンが閉まったままのとなりのベッドから不機嫌そうな女性の咳払いが聞こえてきた。二人はしばらく沈黙に身を委ねた。
しばらくして口を開いたのは、イツキだった。
「手術ってさ、体を治すためにするもんだろ」
「まあ、そうだな」
「俺ってさ、治療が必要なのか? このままだと社会で生きていけない身体なのか? だから手術しないといけないのか?」
「いや、それは……」
「おかしいだろ。戸籍とか制度のために、なんで俺が手術しなきゃいけないんだよ」
語気を強めたイツキの耳たぶは、ほんのり赤く染まっていた。ジンは再び腕組みをしたまま考え込んでいる。廊下からは看護師の足音とカートを押す音が聞こえていた。
しばらくして、ジンが口を開いた。
「おまえの言う通りだよな。俺らだけ、なんでこんなしんどい思いしなきゃいけないのか。ちょっとルールを変えてくれればいいのに。俺だって心からそう思うよ。でもさ、このままでいいのか。サトカ、どっか行っちゃうぞ」
イツキはノックアウトされたボクサーのように生気のない表情でパイプ椅子に深く身を沈めている。看護師の足音とカートの音がいよいよ近づいてくると、部屋の前でピタリと止まった。
「奥原さーん、夕食の時間ですよー」
「あ、はーい」
イツキは、ゆっくりと立ち上がった。
「俺、行くわ……」
「ん、ああ。なんか悪かったな。せっかく来てくれたのに」
「いや、思ったより元気そうでよかったよ」
看護師に挨拶をして、病室を出る。エレベーターのボタンを押して、扉が開くのを待っていた。手持ち無沙汰に、ズボンのポケットからスマホを取り出した。
「えっ」
思わず声が出た。画面には、サトカからのメッセージを示す通知が届いていた。
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