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連載小説『ヒゲとナプキン』 #27
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JR前橋駅の北口ロータリーからバスに乗った。一月二日ということもあるのか、バスの乗客はイツキのほかに数人がいるだけだった。動き始めたバスの車窓から視線を外にやった。見慣れたはずのその景色は、しかしまるで様変わりしていた。
駅前のイトーヨーカドーは「エキータ」というセンスのかけらも感じられない名称のショッピングセンターになっていて、小学生のときに立ち読みしていた書店も、中学生のときに入り浸っていたゲームセンターも見当たらなかった。代わりにビジネスホテルや全国チェーンの居酒屋などが増えていて、あらためて八年という年月を感じさせた。
五分ほど揺られていると、やがて駅前の繁華街を抜けて住宅街に差しかかった。そこには八年前と何も変わらない街並みが残っていて、なつかしさと、そして苦しさがこみ上げてきた。このあたりを歩いていたときには赤いランドセルを背負わされ、セーラー服を着せられていた。「女の子」として振る舞うことを強制されたこの場所では、甘い思い出のかけらさえ見つけることができなかった。
しばらくするとイツキが通っていた中学校が見えてきた。同じクラスに女子バレーボール部の女の子がいた。向こう気が強く、「女のクセに」と言われながらも、男子相手だろうが、教師相手だろうが、言いたいことをはっきりと主張するその態度に惹かれていった。だが、それが恋慕の情であると気づいたとき、イツキはひどく狼狽した。ひとたびその感情を認めてしまえば、自分がこの世の中で異端であるということを追認することになる。
否定しようにも日増しに膨れあがる思いに、胸が張り裂けそうだった。あくまで女友達として微笑みかけてくれる彼女に対して、じつは恋心を抱いていることなど、罪悪感が邪魔をして到底伝えることなどできなかった。「おはよう」と「ありがとう」が言えれば、それで十分だった。生まれて初めての恋には、結局、“友人”というフタをして三年間をやり過ごした。
十数年前への感傷的なタイムスリップから、ふと我に返った。中学校を通り過ぎたのなら、実家はもうすぐそこだ。イツキはあわてて降車ボタンを押して、次の停留場でバスを降りた。同窓会があっても一度も帰らなかった町を、八年ぶりに踏みしめた。凍てつくような寒さのなか、イツキは頬を少しだけ紅潮させながら、あたりを見回した。
慣れ親しんだはずの街並みなのに、どこか所在なさを感じさせられた。かつては少女として歩いたこの道を、いまは胸を切除して、ヒゲをたくわえて歩いている。「帰ってきた」という感慨もないことはなかったが、それよりも“新参者”としてこの地を訪れているという感覚のほうが上回った。
通りの向こうから見覚えのある顔がやってきた。安藤のおばちゃんだ。二軒となりに住む安藤のおばちゃんは、幼い頃からコズエとイツキの姉妹をかわいがってくれた。あまり愛想のない姉のコズエに、近所の大人たちは素っ気ない態度で接していたが、安藤のおばちゃんだけはコズエに対しても分け隔てなくかわいがってくれていたので、イツキも信頼して、ずいぶんなついていた。
段々と近づいてくる。以前よりも少しシワが増えた印象だ。歩くスピードもこんなに遅かっただろうか。向こうからも識別できるはずの距離に来たが、イツキに気づく様子はない。無理もない。彼女が可愛がってくれていたのは、あくまで「ボーイッシュなイツキちゃん」であり、ヒゲを生やした猫背の青年ではない。イツキはすれ違いざまに軽く会釈したが、安藤のおばちゃんは怪訝な顔つきでイツキを一瞥しただけで、そのままバス通りのほうへと立ち去っていった。
青い屋根の一軒家が見えてきた。次第に鼓動が早まっていくのがわかった。ねずみ色の御影石を彫り込んだ表札には「山本」とある。八年前と何も変わらない佇まいに、さすがに込み上げてくるものを感じた。
ここで育った。父と母と、コズエとイツキ。四人の暮らしが、ここにあった。姉のコズエは「山本」から「奥田」になり、娘から母となった。イツキは胸を切り、ヒゲを生やし、「女」から「男」になった。二人の娘は家を出て、人生の針を大きく進めた。父は、母は、この八年間をどう過ごしていたのだろう。
呼び鈴に向かって手を伸ばした。指先にボタンが触れる直前、その手が止まった。正月に帰ることは、仕事納めの日に母へメッセージを送っておいたが、それでもどんな顔で二人の前に姿を現せばいいのかわからなかった。
深く息を吸い込む。ゆっくりと吐き出す。イツキは二度、三度と頭を左右に振ると、くるりと背中を向けて、もと来た道を歩きはじめた。
数十メートルほど進んだところで立ち止まると、イツキは再び踵を返した。もう一度、家の前まで戻ってくると、意を決した表情で濃いグレーの思い扉を見つめた。
「スーッ……ハーーーッ」
深呼吸をしたあとで、あらためてチャイムを鳴らした。
「はーい」
インターフォン越しに、母であるフミエの声が聞こえる。
「あ、イツキ……です」
「はい、いま行くね」
いつものクセで「俺」と言いかけた。さすがにそれでは母に悪い気がして「イツキ」と言い換えた。
ドアが開いた。エプロンをつけたままのフミエが姿を見せた。
「ただいま……」
「おかえり」
フミエは二、三歩、前に進み出ると、イツキの背中に両腕を回した。母親に抱きしめられるなど、いつ以来だろうか。緊張から小刻みに身体が震えていることが、きっと伝わってしまった。
「おかえり」
母のつぶやいた二度目の言葉はずいぶんと耳の近くで聞こえて、イツキの涙腺を刺激した。
「さあ、入んなさい。お父さんも待ってるのよ」
フミエに背中を押されてドアを開けた。玄関に足を踏み入れると、なつかしい匂いがした。
「ただい……ま」
リビングにいるだろう父に向けて声を出したつもりだったが、緊張のせいかほとんど声になっていなかった。
「荷物持とうか」
「いいよ、自分で持つから」
いつまでも子ども扱いをしてくるフミエに、いかにも鬱陶しそうな顔をして、いっそ八年ぶりに甘えたくなる衝動を押し隠した。
廊下は外気とそこまで変わらない寒さで、歩くと白い息がこぼれた。たった数歩でリビングへと続く扉へとたどり着いた。
ドアノブに手を伸ばす。振り返る。母が無言でうなずいている。イツキも黙ってうなずいた。
ドアを開けると、一気に暖房であたためられた空気が流れ込んできた。
「ただいま」
今度はなんとか声が出た。
「ん、ああ……おかえり」
父のシゲルは、ダイニングテーブルで不自然に新聞を広げていた。その様子は微笑ましいほどにわざとらしく、かえってイツキの緊張をほぐすのに一役買った。
「これ、東京みやげ」
イツキは東京駅で買ったワッフルケーキの箱をリュックサックから取り出し、机の上に差し出した。
「ああ、すまんな」
シゲルはようやく新聞を下ろして、視線をテーブルにやった。コズエの結婚式以来、約一年半ぶりとなるその顔を、イツキはまだ直視することができずにいた。
「姉ちゃんは帰ってないんだよね」
イツキは着ていたコートを脱いで椅子の背もたれに掛けると、シゲルと向かい合わせになるような形で腰かけた。
「そうなのよ。やっぱりお正月は奥田さんのほうのご実家に行かなきゃいけないみたいで」
母は返事をしながら、キッチンで湯を沸かし始めた。以前はステンレス製の無味乾燥なシルバーのやかんだったが、いまは台所に花が咲いたかのような真っ赤なやかんに替えられていた。
「あけましておめでとう」
口を開いたのは、シゲルだった。
「あ、ああ……。あけましておめでとう」
気後れして声がかすれたが、イツキもあわてて新年の挨拶を口にした。
「あのさ、母さんも手が空いたら、こっちに来て座ってよ。話があるんだ」
「はい、はい」
口にした言葉に、自分でも驚いた。まだ会話らしい会話をひとつもしていない。まずは八年間のブランクを埋めることが先決だと思っていた。それなのに、いきなりサトカのこと、子どもの話を切り出そうとしている自分に焦りを感じた。
イツキが買ってきたワッフルケーキに合わせて紅茶を淹れてくれた母は、三人分のティーカップを用意すると、ようやくダイニングテーブルに腰を落ち着かせた。シゲルは新聞を畳んで脇に置き、黙って腕組みをしている。
「すまなかった」
シゲルは組んでいた腕をほどき、テーブルの上に軽く手をつくと、そう言ってイツキに向かって頭を下げた。
「えっ……」
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