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連載小説『ヒゲとナプキン』 #21

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 イツキは軽く息を吸い込むと、〈高野メンタルクリニック〉というプラスチック製の看板が貼り付けられた扉をノックした。

「どうぞ」

 中から聞こえてきた返事に、扉を開ける。

「失礼しまーす」

 イツキは慣れた様子で布製の衝立の奥まで進むと、簡素な事務机の前に座る初老の男に向かって、「よろしくお願いします」と頭を下げた。

「ああ、イツキ君。調子はどう……おや」

 高野は、ようやくイツキの後ろに控える女性の存在に気がついた。

「ええと……」

「露木サトカと申します」

「あ、先生。僕が一緒に住んでるパートナーです」

 イツキが後ろを振り返りながら紹介すると、高野はやっと合点がいったようで笑顔を見せた。

「ああ、そう。あなたがサトカさん。さあさあ、座って」

 高野は小さな診療所の隅にあった丸椅子をもうひとつ持ってくると、サトカの前に差し出した。

「ありがとうございます。これ、よかったら奥様と召し上がってください」

 高野は、サトカが差し出した小さな紙袋を受け取った。

「そんなに気を遣わなくても……イツキ君なんて、もうずいぶん長い付き合いになるけど、こんなの一度も持ってきたことないんだから」

「あ、すみません……」

「冗談、冗談。まあ、コーヒーでも淹れてこようかね」

 高野が再び立ち上がる。イツキのとなりで、サトカは初めて訪れた診療室をゆっくり見回していた。

 いつもペロッと尻を出しては四つん這いになっているベッドを見られると、どことなく気恥ずかしさを感じた。イツキはこの場所で定期的に男性ホルモンを注射してもらうことで、かろうじて男性であることを保っている。サトカにその裏舞台を晒すことには、若干の抵抗があった。だが、これから二人が挑もうとする航海には、おそらく経験豊富な水先案内人が必要だったし、その任に適した高野には早い段階でサトカを紹介しておくべきだと考えたのだ。

「紙コップでごめんね」

 湯気の立った紙コップを両手に戻ってきた高野に、二人がそれぞれ手を伸ばす。

「それで——」

 自分の椅子に腰を落とした高野が、あらためて二人に向き直った。

「僕たち、子どもを持ちたいと思ってるんです」

 イツキの告白に、高野は表情ひとつ変えずにコーヒーをすすった。

「二人で話し合ったり、ネットで調べたりと、やれることはやってきたんですけど、ここから先、具体的に進めていくには、やっぱり専門家の先生にアドバイスをもらったほうがいいなと思いまして」

 イツキの言葉を最後まで聞き終えると、高野は目を細めた。

「そうか、おめでとう」

「いや、まだ何も赤ちゃんができたわけじゃないですから」

「でも……そう思える相手ができたこと。素晴らしいじゃないか」

 いつも通りの落ち着いた口調だった。イツキは、そこに高野が重ねてきた人生の年輪のようなものを感じた。

「ただ、正確に言うと、私は専門家ではないんだ。生殖補助医療といって、また別の分野になるのだけど、まあその手前の相談ということであれば、私でも役に立てるかな」

「ありがとうございます。先生が見てこられた患者さんの中でも、その……なんというか、僕たちのようなケースの方っていらっしゃいましたか?」

「まあ、そうだね。いないことはない。ただ——」

 イツキが安堵の表情を浮かべる間もなく、高野は言葉をつないだ。

「いないことはないけれど、一人ひとり、そのカップルごとにニーズは違うからねえ。何を望み、何を望まないのか。だから、本当の意味で同じケースと言えるのかどうか」

 そう言うと、高野は再びコーヒーをすすった。

「たしかに、それはそうですよね。ひとまずネットで調べた限りでは、どこかから養子を取る方法と、精子提供を受けてサトカが出産をする方法と……やっぱり、この二つになりますかね?」

「まあ、そうなるかな」

 高野はここまで黙っていたサトカに視線を向けた。そのまなざしに促されるように、サトカが口を開く。

「彼にも伝えたんですが、私は養子には乗り気ではなくて……。やっぱり、そこは女性として、可能ならば自分の子を産みたい、お腹を痛めて自分の子を産みたいという気持ちがありまして……」

 サトカの素直な心情に、高野が深くうなずいた。

「私の身体にそれができないとなれば話は別なんでしょうけど、そうでない以上、やっぱり自分で産みたい、その選択肢は消したくないなって」

 サトカの言葉を受け、今度は高野の視線がパートナーであるイツキへと向けられた。

「まあ、それはそうですよね。うーん……正直なこと言えば、僕もサトカも血がつながっていない子をどこかからもらってくるほうが、親としてフェアに育てられるのかなという気持ちも、なくはないです。でも——」

 イツキは言葉を切ると、視線を床に落とした。

「僕のそんなせせこましい感情よりも、サトカの『自分の子を産みたい』というプリミティブな感情のほうが優先されるべきかなって、そう思うんですよね」

 三人が口をつぐむと、壁にかけられた時計の秒針がカチッ、カチッと勤勉に動く音が聞こえてきた。イツキは丸椅子に腰掛けながら大きく足を開き、背中を丸めている。紙コップを両手で握り締め、ぬるくなったコーヒーをじっと見つめていた。

「先生……精子提供というのは、一般的には精子バンクみたいなところからもらってくることになるんですかね?」

 沈黙を破るイツキの質問に、高野は落ち着き払った様子で答えを返した。

「まあ、そういう選択をする人もいるかな」

「そこが、何というか……感情的に割り切れないんですよね。どこの誰かもわからない男の精子と、僕の愛するパートナーの卵子が……結合して……受精卵になって……それをサトカの胎内で育てていくんですよね」

「ああ」

「そうして生まれてきた命を……僕、愛せるのかな。みなさん、どうなんですかね。ちゃんと愛せてるのかな。僕、ガキなのかな。そのへん、いまひとつ自信がなくって」

 声を震わせるイツキを、高野は眼鏡の奥から優しい眼差しで見守った。

「最初から自信がある人なんて、いないんじゃないかな」

 うなだれるようにして黙り込んだイツキに代わって、サトカが口を開いた。

「先生、身内から提供してもらう、というケースもあるんですよね?」

「うん、ありますよ」

「私、イツキの気持ちもわかるんです。私と生まれてきた子どもには血のつながりがある。けれども、イツキとその子には血のつながりがない。それって、彼からしたらやっぱり不安だと思うんです。だから……彼の身内から提供された精子なら、彼も少しは血のつながりを感じられるのかなって」

 高野はサトカの言葉にうなずきながら、問いを投げかけた。

「あなたは、それでいいの?」

「はい。私自身が『自分の子どもを産みたい』と、養子という選択肢を排除してしまっている以上、そこから先の選択については彼に委ねたいと思っています」

 サトカは丸椅子の上で背筋を伸ばし、まっすぐに高野を見つめ返した。

「イツキ君、ご兄弟はいるんだっけ?」

「いえ、姉が一人いるだけです」

「そうか。となると……お父さんになってくるのかな」

 覚悟していた言葉ではあった。それでも、イツキは高野が示した唯一の可能性を耳にすると、手元で空になっていた紙コップをぐしゃっと握り潰した。

「ただ、もう八年も口を利いてないんですよね」

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