連載小説『ヒゲとナプキン』 #26
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生活感がにじむ茶色いテーブルを花柄のテーブルクロスで覆い、その上にデパートの地下で買ってきた料理を並べた。二年ほど前まではクリスマスだろうが延々と残業させられたものだが、最近は喧しく叫ばれるようになった“働き方改革”のおかげか、二人とも早々に夕方で退勤することができた。
「ねえ、サトカ。クリスマスイブなのに、本当にうちなんかでよかったの?」
「いいの、いいの。今日なんてどこ行ったって気取ったコース料理しか出てこないんだし、それで普段の二倍はするんだから」
そう言ってサトカは手元のワイングラスを引き寄せると、自分で買ってきたイタリア産の赤ワインに口をつけた。
「お、なかなかイケる」
満足そうな笑みを浮かべると、サトカは静かにグラスを置いた。イツキはオリーブオイルとハーブで焼かれたチキンにフォークを刺すと、そこにナイフを差し入れた。ひと口頬張ってみると、デパ地下で買ってきた惣菜とは思えないほどに弾力があり、中から肉汁があふれ出た。
「おお、これもうまい!」
「ほらね、変にレストランで高いお金払うことないのよ」
サトカの買ってきたワインをチキンと合わせると、まるで高級レストランで出てくる料理のように感じられた。
「サトカと過ごすクリスマスも、これで三回目かあ」
「初めてのクリスマスはジン君のところで、去年は……あれ、去年はどうしたんだっけ?」
「去年はあれだよ。サトカが東京タワーに登りたいって」
「そうだ、そうだ。それで行ってみたらすごい混雑で、あきらめて近くでおでん食べて帰るという……」
「クリスマスにおでんも、まあ、いい思い出だよ」
二人して苦笑いを浮かべる。サトカはグラスに手を伸ばし、イツキはサーモンのサラダに手をつけた。
「あ、正月はどうする?」
サトカがチキンを頬張りながら顔を上げると、イツキは動きを止めた。
「私は今年みたいに寝正月でもいいよ。Netflixとかで映画観たりして」
「サトカ、それなんだけどさ……」
イツキはフォークとナイフを置くと、背筋を伸ばした。
「今度の正月、実家に帰ろうかと思うんだ」
「え、実家って……」
「うん……親父に、会ってこようかと思って」
サトカも、ナイフとフォークを置いた。ひと口、ワインで呼吸を整えた。
「そっか」
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
「何、話すの?」
サトカの問いに、イツキはテーブルに視線を落としたまま口を開いた。
「うーん、わかんない」
「そうだよね……」
「子どものこと、頼まなきゃとは思ってるけど、そこまで行けるか、正直わからない」
「うん、わかってる。八年、だもんね……」
イツキは背もたれに身体を預けると、うつむいたまま、ぽつりとつぶやいた。
「結局さ、負けてたんだよね。この身体に」
「負けてた?」
ジンの生き方を否定するつもりはない。だが、自分自身は新宿二丁目で働くことを拒んできた。もしかしたら、二丁目を選んでいたほうがラクだったのかもしれない。だが、それはどこか運命に左右されているようで癪に触った。
「スーツ着て、ヒゲ生やして、サラリーマンとして振る舞って……俺、イケてんじゃん、境遇なんかに負けてないじゃんって思ってた」
「うん、私もそう思うよ」
「でもさ……負けてたんだよな」
「そうなの?」
「俺……気づいたら親父を失ってた」
イツキのまぶたには、二日前にコズエの家で見た写真が焼きついていた。シゲルの膝に抱かれ、無邪気な笑顔を浮かべるイツキ。その親子関係を断ち切ったのは、やはりトランスジェンダーという境遇にほかならなかった。
「いまでも許せないという気持ちが、ないわけじゃない。あんなやつを父親だなんて認めたくないと思ってきたこの八年間の思いも、嘘じゃない。でもさ……」
「うん」
「それって負けてるよね。俺、この境遇のせいで、大事な親父を失ってるってことに気がついたんだ」
イツキはさっきスーパーで買ってきたクリスマス柄の紙ナプキンを、目頭に当てがった。
「どっちが悪いとか、誰のせいとか、そういうんじゃなくて……俺、ただシンプルに、親父を取り戻したい」
「うん……」
サトカの涙声につられて、イツキの視界も滲み出した。
「だから、親父と会ってこようと思う。会って、話をしてこようと思う」
顔を上げると、サトカのマスカラがにじんで、パンダのような顔になっていた。
「バカ……クリスマスイブに、なんて顔にしてくれんのよ」
「あ、ごめん」
口では謝ったものの、サトカの顔を直視したら思わず吹き出してしまった。
「あ、いまのめっちゃ失礼!」
「ごめん、ごめん……く、くふふふふ」
さらに笑い転げるイツキに、サトカは口を尖らせた。
「ねえ、イツキ」
「ん?」
「そしたら、お正月、私も実家に帰ろうかな」
「あ、うん……」
イツキの脳裏に、新宿のカフェでの記憶が蘇る。
「私ももう一度、話してみる」
「うん」
「おたがい、頑張ろう」
サトカがワイングラスを高く掲げた。
「うん、頑張ろう」
イツキも自分のワイングラスを持ち上げ、サトカの持つグラスにカチンとぶつけた。聖夜にふさわしい鈴のようにきれいな音が、リビングにこだました。
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