見出し画像

ほぼ初対面の12人で、知床をカヤックで旅した話。

知床エクスペディションというクレイジーなツアーに参加した日記をここに記しておきたいと思う。長文・駄文ということはご承知の上、読み進めて欲しい(15,000文字を超えている)。
私が、この日々の出来事をいつでも思い出せるように書いたまで、と言うことをお見知りおきください。

エクスペディションを「ツアー」と表現しているが、エクスペディションは「登山や探検などを目的とする遠征。 また、その遠征隊。」という意味。お金を払って、お客様として至れり尽くせりされるものではないこともお伝えしておく。

知床エクスペディションとは、カヤックで知床半島を羅臼・相泊からウトロまで回る、約30年間も続いているツアー。知床で、登山やらサイクリングやらをしていると「ぜひ行ってみては」と言われるツアーで、私も知床1-2年目の頃から知ってはいたが、日程が合わない上、よく分からず参加せずにいた。
今年2024年、腐れ縁の友人の誘いもあって、仕事の繁忙期に入りかけた時期だったが、8日間の休みをもぎ取って参加することにした。

参加した先輩方の話を聞くと、「行程的には3日で行ける」「1日ぐらいは荒れて停滞すると思う」ということだった。私たちが参加する日程の中では、7月1日が少し荒れる予報だったので、まぁ4日ぐらいで早めにツアーが終わり、休みの後半が余ったら山にでも登ろうとか、そんなことを考えていたが、ぬるかったなと今になって思う。

6月29日(土)

16時に相泊に集合ということだったので、お昼時に友人と待ち合わせをして車に乗り合わせて向かった。出発前に装備確認をして、足りないものは羅臼のニコットなどで買うことにした。お昼は、最後の晩餐だ〜とか言いながら、道の駅で黒ハモ丼を食べた。
道中に寄ったルサフィールドハウスで、今回の航路を含む地図を買い、水路誌を参考に、時間になるまで地形を読み合わせた。

海を眺めて羅臼を感じながら、相泊を目指す。
16時過ぎ、集合場所に着く。番屋の中に人影が見えたので声をかけると、今回ガイドをしてくれる新谷さんだった。鶴居から自分のカヤックを持参したワタナベさんが、もうすでにコーヒーを入れてまったりしていた。30年近く前、新婚旅行で新谷さんとカナダにカヤック旅に行ってからの仲らしい。
今日は、この番屋で過ごすということだったので、寝床の確保のために掃除をして、必要な荷物を運び入れた。2階には蛇がいる、と言われていたが、2階どころか1階の寝床の蛍光灯の上にいて、少し慌てた。友人が迅速に対応し、腕に絡み付かせたヘビを外に逃した。以前、ヘビを飼っていたことがあるらしい。初めて知った。

今回のツアー参加者は10名。そのうち、女性が4名。そこに新谷さんと、サポートガイドのトッチさんが加わって、合計12名のパーティとなる。
私たち2名を含めて、初参加は4名。他は2回目だったり、新谷さんの旧友だったりした。
カヤック経験暦に関わらず参加できるありがたさはあるが、カヤックの扱い方も各自で、また、装備の確認もせず進むので、初心者な私はとても不安になった。まぁなんとかなるか、ぐらいの気持ちで、夕食の準備を手伝う。

この日の夕食は、サーモン、エビ、イカが入ったシーフードカレーだった。あと、新谷さんがニセコから持ってきたトマトもいただいた。スイカも食べた。美味しい。
前夜祭があると聞いていたが、そうか、この場のお酒は車に置いて行けるのでもう少し買っておけばよかったなと思ったが、手慣れた他の参加者がビールをたくさん持っていたので分けてもらった。
ウトロからの、しかも自費で参加するものは珍しいようで、参加者といろんな話をした。私たちにとっても、このツアーのために日本中から来る方(今回はブラジルから来た人も)がいることに興味があり、話が弾んだ。

さっきまでヘビがいた部屋に寝袋を敷いて寝た。まだ参加者の顔と名前は一致しない。

出艇初日 6月30日(日)

5時頃、起床。昨夜の残りのカレーやご飯を食べて、出発の準備をする。指示のままにあわあわと準備を進め、8時30分頃、気がついたら海の上だった。

私は友人とタンデム艇(二人乗りカヤック)に乗り、海に浮かぶ。私はカヤックに3回ほど乗ったことはあるが、友人は初めて。漕ぎ方のレクチャーは特になく、参加者の1人にいた道内でカヤックガイドをするニナさんに少しだけ教わった。

ガイド新谷さんが乗るタンデム艇を先頭に進む。穏やかではあるが、うねりがある。少し酔いながら、見よう見まねで漕ぎ始めた。

知床岬までは観光船でも見たことがあるからか、景色を楽しむというよりも、カヤックを漕いだり、操作する方に夢中になりながら漕ぎ進めた。
カヤックは、沖ではなく、岸寄りを走る。岩と岩の間をすり抜けるように漕ぎ進めるところもあり、とてもワクワクした。

海岸トレッキングをしたことのあるモイレウシは、出艇から2時間程度で通過。歩くと5時間かかったのに、あっという間だ。荷物も背負わなくていいので、快適な海の旅だ。

11時頃、ペキンノ鼻(岬側の石浜)が見えた。先頭の新谷さんとウメさんの艇について漕いでいたが、後ろから大きな声が聞こえた。どうやら、ノリコさんの艇がチンして、それをニナさんが教えてくれる声だった。
ノリコさんは、今回ブラジルから参加している日本出身・日本人女性で、2年前にも参加し2回目の参加だった。先頭にいた新谷さんの艇が踵を返し、現場に行く。
残された私たちとニナさん、東京で学生をしているキガくんは、とりあえず海で待つしかなかった。漕がないと波に押し流されてしまうので、新谷さんが指していた上陸するっぽいポイントに向かって緩やかに漕ぐ。遠かったので様子はわからなかったが、無事に復旧したようで、改めて上陸予定の海岸に向かった。

天候に不安があるため、これ以上は進まず、ペキンノ鼻で野営をすることになった。
カヤックから全ての荷物を出し、共同荷物はタープへ。個人荷物も取り出し、テントを立てる。知床半島の浜はほぼ石浜なので、寝る場所に困るが、少しだけあった砂地にテントを張ることにした。後々だが、砂がテントに入るめんどくささと、崖が近く落石の可能性もあるため、テントを張る場所はもう少し気をつけるべき、と教えてもらった。

手早く上陸用の服やサンダルに着替え、新谷さんの昼食の準備を手伝う。テン場の近くに小さな沢があり、取水可能とのことだったので、場所を教えてもらって汲む。火を起こし、水を煮沸し、インスタントラーメンも作って食べる。暖かいスープが沁みる。

午後は時間が空いたので、友人と周辺を散策した。知床岬までのトレッキングルートで、岩壁をへつる場所がすぐそこだったので、2人で向かう。
戻ってきてから、反対方向のペキンノ鼻と、その先にあるペキン川に向かう。他の参加者も何名か一緒に行くことになった。

ペキンノ鼻は、陸から見ると斜面、海から見ると崖の上にあり、標高は目見当で40mぐらい。登って尾根上を内陸側に進むと鳥居がある。海側に降った先に、ペキン川がある。
思っていたより斜面がきつかったため、ペキン川に向かうのは私と友人とニナさんだけになり、他は、鳥居を見て戻ることになった。

踏圧ですり減った地面を転がらぬように気をつけながら斜面を下り、石浜を歩く。私と友人は、陸を探検する気満々だったので、上陸用には動きやすいKEENのサンダルを履いていた。
ペキン川で取水し、友人が持っていた浄水器を使って飲料水としてボトルに入れた。

また戻って、鳥居を見たチームと尾根で合流。私と友人は鳥居を見に進み、他のみんなはそのままベースに戻ることになった。

崖の上に広がる草地に、ポツンと赤い鳥居が立つ。今にも倒れそうな感じだったが、幾千の知床の雨風を耐え抜いてきたことを思うと、見た目以上に強いのだろう。
新谷さんと友人が話していた、オホーツク老人や、ひかりごけ・避ける岬の話を思い出す。なぜここに鳥居があるかは、私の頭にはないけれど、人の無事を祈らずにはいられない場所なのだろう。

斜面下から、エゾシカの親子が歩いてきた。人に気付いても逃げもせず、トコトコと歩みを進める。

私は1人残って、数分だけ海を眺めて帰ることにした。昨年11月に行った沖縄・渡嘉敷島の海を思い出す。人の死に向き合うことは、生きるために必要不可欠なことだと思う。

16時頃、ベースに戻ると、夕食の準備が始まっていた。マーボー豆腐丼だった。忘れてしまったが、野菜がたくさん入っていた。前夜祭の時に顔を出してくれた羅臼のマンさんから頂いたらしいホタテも焼かれた。羅臼のホタテは肉厚で、ヒモもコリコリしていた。ガーリック味が美味しい。

参加者はそれぞれ、思い思いにお酒を飲んだり、海を眺めたり、火を囲ったりする。
ムードメーカーな新谷さんを囲って話すことが多かったが、2年前から知床を取り巻くことにも話が及んだ。まだ、私は上手く話に入れない。発言すればするほど、自分と誰かを傷つけるような気がする。今日は、意を決して、新谷さんに少しだけ話を聞いてもらった。

日没の19時頃には、皆、各々のテントに入り寝床についた。
友人が持っていた2人用のテントで寝た。落石の話もあったので、頭を海側に向けて寝たが、枕を高めに置いたはずなのに、案の定、首が痛い。次にテントを張る際は気をつけようと思う。

2日目 7月1日(月)

3時頃、外が白けてきたので起床。
天気が良ければ直ぐに出艇すると言うことだったので、友人と準備をしてからテントの外に出た。すでに火を炊いていた新谷さんが、天候が悪いから停滞、着替えてきていいよ、と言った。少し雨が降っている。今、穏やかに見える海も、カヤッカーにとっては良くないのかと難しく考えながら、淹れてくれたコーヒーを飲んで、朝食にサンドウィッチを食べた。

朝食後に数人でまったりしていると、8時過ぎ、知床岬側から歩いてくる人影が見えた。トレッカーが2人、岬からの帰路だった。淹れた紅茶を飲みながら少し話すと、それぞれ長野県と埼玉県から来ていて、数年前にトムラウシのテン場で出会った際に意気投合し、今回の岬行きに繋がったらしい。
無事に岬まで行き、道中、ヒグマと遭遇した話を聞いた。

2人を見送り、いい具合な時に昼食作りが始まる。お昼はだいたいインスタントラーメンで、その時にあるいい感じの食材を具材にして出してくれる。
食事作りは基本 新谷さんと、旧友のウメさんがやってくれるが、まちまちに参加者も手伝う。薪にする流木集め、火起こし、具材切り、米研ぎなどなど。お米の炊飯と、料理の仕上げは新谷さんで、どれも美味しい。あと、昼と夜はボリューミーだ。

午後、調子が良ければ出艇するかも、とのことだったが、それもなさそうなので、お昼からお酒を飲んだ。新谷さんが持ってきた赤ワインを飲み、羅臼のマンさんからもらった干しトド肉をつまんだ。

あまりよく覚えていないが、トド肉を食べゆっくりしている頃合いに、海が荒れ始めた。兵庫から参加のタカシアニキと、ワタナベさんやトッチさんが、参加者全員のテントを点検して回ってくれて、張りや固定を強くしてくれた。

海岸ではペグが役に立たない。浜に転がる石にロープを括り付けていたが、キャンプディレクターでもあるアニキの教えで、20cmぐらいの流木にロープをつけ、それを石で抑えることにした。確かに、こっちの方が石をたくさん置いて固定を強くできる。野外活動に慣れていて、複数回参加している方がいるのはとても安心だ。

強風が吹き始めた。
どんな具合だったか覚えていないが、急激に突風が吹き、どんどん強まり、止む気配もなく、キガくんのテントが飛ばされた。飛ばされた、というか転がった程度で済んだのだが、その場にいた人で押さえにかかる。(ちなみにこの時だったかどうか忘れたが、キガくんは、テントの中にいる状態でテントごと飛ばされたようだった。)

ポールを抜いてテントを潰せ、と新谷さんが叫ぶ。もうすでに、立って歩けないほどの風が吹き抜けている。トド肉を齧っていたのは、ものの30分前ぐらいだったかと思う。
風で飛ばされぬように踏ん張りながら、自分のテントのポールを抜く。焦りからか上手く外れない。新谷さんも手伝ってくれて、なんとか外し、テントを潰して、飛ばされぬように大きめの石を置いた。ポールを折らないように気をつける。友人は、陸にあげているカヤックを抑えてくれている。

寝袋を持って避難しろ、と新谷さんが叫ぶ。潰したテントから手探りで寝袋とシュラフカバーを取り出す。今朝、出発すると思ってあらかた荷物をまとめていたことが役に立った。一眼レフもバッグに詰めた。

友人と荷物を抱えて移動する。風は、水飛沫を巻き上げて海を走る。水飛沫を見ると、風が見える。風を見ながら、時々、強いのが来るぞ、と叫んではしゃがみ、踏ん張り、収まってからまた移動する、を繰り返した。経験したことはないが、戦時中かと思った。

ベースから100mもないところに、すでに役目を終えた番屋があり、中に入ることができたのでそこに避難した。避難したのは、私と友人とニナさん、キガくん、ノリコさんだけで、あとはベース周辺に残っていた。

番屋の内装は比較的新しかったが、一階部分はガラスや備品などが錯乱していた。避難したはいいものの、どうしていいか分からず、外の様子を不安を抱えながら眺めるしかなかった。寝袋を持って避難しろ、と言うことは、ここで夜を過ごす可能性があるのではと想定し、少しだけ片付けを試みる。
階段があり、狭いが屋根裏部屋的なところで雑魚寝できそうだった。

避難して30分も経たない15時頃、新谷さんが番屋に来た。すげー風だな〜、みんな無事か〜、などと相変わらずに調子で少し安心した。

新谷さんの指示の元、本格的に番屋を片付ける。全員が避難しても身動きが取れるように物を移動し、少し掃き掃除をした。この番屋は、三船さんという方のもので、10年ぐらい前まで使われていたらしい。中にあった新聞は2010年のものだった。食器や子供用の椅子もある。人の生活がここにもあった。

16時になると新谷さんはラジオを聴き、天気図を書く。そのために先に番屋に来たようだった。水とレーズンパンとベーコンを持ってきてくれていて、みんなで分けた。

新谷さんは、今年で77歳になる。事前に調べきれていなかったが、実は酪農学園大学の先輩で、その頃からとんでもない登山(主に冬)をする人だったようだ。ヒマラヤなどにも遠征し、登山隊の隊長なども務めたようだ。30歳代に誘われて始めたカヤックにハマり、アリューシャンや南米ホーン岬も漕ぐ中で、知床半島の自然を多くの人にも体験してほしいと、このツアーを30年ほど続けている。

酒でも飲もうや、と言いながら、この悪天候の中でも忘れずに持ってきたウィスキーを注ぎ、新谷さんは天気図を書く準備をする。一息ついていると、新谷さんは笑いながら、経験なんて役に立たないのよ、でも経験が役に立たないってことは経験を積まないとわかんねぇんだよな、と言った。その顔があまりにも無邪気で、私も、少し笑った。笑ったと言うか、笑えたと言うか。この人は、今のこの状況も楽しんでいるんだと感じた。緊張がほぐれた気がした。

16時になって、天候の情報がラジオから流れ始める。ラジオを聞いて天気図を書けることは知っていたが、実際にその様子を私は初めて見た。大体20分間ほど、淡々と続く天候情報を聞き、新谷さんは書き進め、私たちは静かにそれを見守る。
その間に、ベースに残ってくれていた男性陣5名が続々と避難してきた。天気図を書き終え、天気を予想しつつ、全員が揃った番屋で状況を整理する。とりあえず全員無事だった。

天気図を見ると、北海道に低気圧がかかり、台風並みの状況だったようだ。旅を終えた後、この日を振り返った時に、恐らく、風速30m/s以上、瞬間的には50m/sの風も吹いていたんじゃないかとも話していた。

男性陣は、カヤックやテントが飛ばされぬようにとベースに残っていたが、あまりにも止む気配がなく、十分に固定したから恐らく大丈夫だろうということで、避難してきたらしい。
京都から参加したコンドウさんは、このツアー中ずっと音楽を聴いていて、この強風の中でもテントの中で音楽と共に過ごしていたらしい。そんなことを話していたら、みんな笑っていた。アニキの片手には、サントリーのウィスキー(でかいボトル)があって、また笑った。どうなってんだ。

風が収まるまで番屋で待機し、様子を伺うことになった。
屋根裏部屋に上がる人もいたが、私は1階でコンテナに座り、新谷さんたちと雑談をした。新谷さんの旧友の話、ガイドやアウトドアに関わる人の話、知床の話などたくさん話した。新谷さんがしぶとく今も生きているのは、臆病だからだと言う。山や海、自然に対しての向き合い方はそれぞれあるが、命を落としては取り返しがつかない。様々な人の生を見届けてきた人の言葉は、重さが違った。

1時間ほど経った頃、風はまだ収まっていないが、新谷さんが1人でベースに戻った。心配だったが見送った。その後18時30分頃には大方風は止み、一旦ベースに戻ることにした。

戻ると、新谷さんが火を焚いていて、大丈夫だからテントを立てなさい、と言う。番屋へ寝袋を取りに戻りつつ、テントも立て直し、より強めに固定した。

強風が吹く前に用意をしていたカレーを温め直し、新谷さんがご飯も炊いてくれた。暗くなった中でみんなで食べた。食べられると思ってなかった、とニナさんが言った。私もそう思った。
新谷さんの本に、私にはカヤックを漕ぐ技術はないが、どこでも火を焚き米を炊ける、という旨が書いてある。温かい飯を食えることが、この冒険を成り立たせているように感じた。

新谷さんがポツリと、風は川ではなかったね、と言った。ずっと流れ続ける川と違って、待てば風は止む、と言うことらしい。避難している番屋でも、新谷さんは、大丈夫、止むから、としきりに言っていた。
風は止む。待てば、止む瞬間が来る。

片付けをして、20時30分頃に就寝した。

3日目 7月2日(火)

日付を越えたか越えてないかの0時頃。またしても強風が吹きテントが揺れる。
昨日の恐怖が残る中で、寝れたものではなかった。でも、睡眠に入っている体はうまく動かない。友人と話し、昨日同様にテントを潰すが、テントの中で寝続けることにした。外で、アニキの声がしたので、手伝ってもらってテントを潰し、飛ばされぬように石を置いてもらった。

3時30分頃、風は止まず、何人かが番屋に避難すると言うことだったので付いて行くことにした。1時間もせぬうちに風が収まり、ベースに戻ることに。火を焚き、コーヒーを飲み、朝ごはんも作って食べた。

8時頃、海に波が立ち始めた。
風が収まった証拠らしい。風が強いと、波すら押さえつけられてしまうため、風が収まってから高い波が出始めるようだ。刻々と天候は変わっていく。

水平線あたりが特に時化ている。ウトロ側を吹く西風が、知床岬の先端から羅臼に抜けてくる際に起こす水飛沫のようだ。上空の雲も、ウトロ側から山を越えてくる空気団と、羅臼側の空気団のせめぎ合いが観察できた。こんなにも空を見ていて飽きないのは初めてだ。

近くに岸壁に打ちつけ、数mほど水飛沫を上げる様子を、写真に収めようとする。誰が上手く撮れるか競い合ったり、なんとなくそんな時間を過ごした。タカシ兄弟(アニキともう1人のタカシさん、大学の先輩後輩だったよう。2人で参加している。)は、昨日同様コンブを拾い集め、乾燥させはじめている。漁師ガッパを着ていると、本物の漁師さながらだ。

11時になる前、昼食にいつものインスタントラーメンを食べる。食べ終わった後に番屋で少し仮眠をとることにした。2時間ぐらい寝た気がする。

戻ると、今日も天気図を書くと言うことで新谷さんが準備をしていた。その様子を見ている間に、友人が私たちのテントを立て直してくれていて、とても申し訳なく思った。共同生活は、自分を優先しすぎず、相手に合わせすぎず、それぞれがストレスを作らないのが基本だった。気をつけよう。

16時30分頃には夕食をとった。炒り卵と菜葉とそぼろ肉の3食丼と、お汁。あと納豆も出た。ツアー参加前は、こんなにも多様な食事ができると思っていなかったので、毎度感動する。今日もご飯が温かく美味しかった。

今日も今日とて、お酒を飲み、暗くなる頃に寝る。

少し波が高く、テントまで到達しないか心配だったが、大丈夫と言うことだったのでそのまま寝た。結局、食材置き・新谷さんとウメさんの寝床になっているタープまで波が来たそうで、21時頃にタープとカヤックを移動させてくれた。翌朝起きると海岸の形が変わっていたので、それほどの波が来ていたのかと驚いた。私は、その時、物音で気づいてテントから顔を出したが、すでに作業は終わっていて、私は何もせずにまた寝袋に戻った。

明日は出られるだろうか。停滞が続くと、ツアーの行程と、日程の余裕が合わなくなる。ウトロ到着日を含めてあと3日間。
想定以上の風、波の収まらなさ、風向き。
恐らくだが、行程の内のまだ1/4ほどしか消化できていない。1日あたり30kmほどは漕げるようなので、2日あれば消化できるルートのようだが、その2日の天候も鑑みないとなんとも言えない。知床岬やルシャ、五湖の断崖など難所はまだたくさんある。知床岬を越えてウトロに向かえるかどうか。行きたい思いは強いが、命を優先し判断するリーダーの指示に直ぐ従えるよう、期待しすぎないように目を瞑る。

この日に見た星空は、この数日の中で一番綺麗だった。

4日目 7月3日(水)

3時、何かの物音で起きたような気がする。テントを開けると朝日がチラッと見えたので、隣で眠る友人を起こさないようにテントを出た。
知床半島の朝日は羅臼から、夕日は斜里・ウトロから見ることができる。私が普段いるウトロから朝日は見ることができないので、なんとなく新鮮に映った。

ぞろぞろとみんなが起き出したので、コーヒーを淹れて、朝食を作る。今日はトマトスープだった。スイートチリソースと何かを入れてたので、飲んだことのなエスニックな感じになっていたが、新谷さんがヒマラヤ風とか言っていた。

結局、この日も停滞となった。
風は止んだが、その余波で、まだ波が続いている。たまに岸壁に打ち上がる波飛沫は、人の背丈を優に超えている。

天気は晴れているので、午前中はゆっくり過ごした。思い思い二度寝したり、昆布を集めたりしていたので、私は石浜にマットを引いて、ストレッチと瞑想をした。石浜で寝る生活がもう4日目となっているが、思ったより体がバキバキではない。

お昼にインスタントラーメンを食べた後、せっかくなら探検しようと思い、ペキン川まで行くことにした。ニナさんを誘うと、川で髪を洗おうと言うことになった。ノリコさんも一緒に行くことになった。

40分ぐらい石浜を歩き、崖を越えてペキン川に行く。以前来た時より、川の形が変わっていた。ここも同じく、波の影響を受けているようだ。川が流れる部分は浅いが、ちょうど2人ぐらい入れるほどの大きさの溜まりがあり、皆でできる限り服を脱ぎ、この天然の水風呂に浸かることにした。
海にちょうど小型船が通った。オレンジチョッキが見えたので、恐らくヒグマクルーズだ。観光船が出られるほど、海が落ち着いてきたのかと安堵する。
観光船が通り過ぎてから、私も服を脱ぎ、水風呂に入った。髪も水で流し、石浜に寝転がった。ととのった。

暖かかった風が、少しひんやりしてきた。風向きが変わったのだろうか。一通り水風呂を楽しんで、また歩いて戻る。途中にあった観音様に手を合わせる。私は、この隊の安全と無事に帰れることを祈った。

戻ると大体16時ぐらいで、新谷さんが天気図を書く時間になっていた。みんなで見守る。新谷さんが天気図を書く姿を見てみたい、と思っていたが、今はもう、出来上がる天気図の方が気になって仕方がない。低気圧はどうなったのか、風はどちらから来るのか。明日は出られるのか。

20分ぐらいで書き終わる。新谷さんが解説してくれた内容は忘れてしまったが、俺は明日行けると見た、とはっきり言っていて、とても印象的だった。期待してもいいのだろうか、どうだろうか。

夕食の準備をする。大きめに切った豚のブロック肉を焼き、カレーに入れた。タカシ兄弟が取ってきた海藻も入っていて、とても美味しかった。
ここでの飯が、これで最後になるかもしれない。少しの寂しい思いと、抑えきれないワクワクが溢れてくる。

そんなことを感じながら食後の雑談をしていると、ニナさんが、クマ、と言った。番屋のある方向にヒグマがいて、もうすでにその距離は15mほどだった。

みんな立ち上がる。咄嗟にクマスプレーを探す。確か焚き火の近くの岩に置いてあったはずだ。見つけて、新谷さんに渡す。新谷さんがクマスプレーを持ちながら、クマに強めに声色で声かける。毅然とした態度が大事だと、後で教えてくれた。オス亜成獣ぐらいのクマは、私たちに近づくことなく、斜面を登っていく。

この数日の風と波の影響で、斜面を青く埋め尽くしていたイタドリなどの草本は、ほぼほぼ茶色く枯れていた。そのため、ヒグマに姿は観察しやすい。
斜面の途中で草を喰みながら、20分後ぐらいには斜面の上部から姿を消した。私はその様子を見守っていたが、みんなは各々雑談を続けていた。ここでしかない風景だなと思った。

その後もみんなで話をした。ワタナベさんと、キガくんが釣ってきたオショロコマを焼いて食べる。一尾もらったが、炭火で焼いてあるからかとてもホクホクして美味しかった。

私が関われる漁師さんの数は、そこまで多くない。飲み屋で会うおっちゃんや同世代の漁師さんが何人かいるぐらいで、基本的に何を話せばいいかわからない。新谷さんと話していて、それは私の知識不足から来るものなのだと実感した。この地で営まれてきた漁師の世界、日本人が身につけるべき一般教養、海に生きる人と雑談できる知識。足りないものはたくさんある。

新谷さんは、この場所でカヤックを続けるために頭を下げ続けていると言う。地域に住んでいる人が一番の優先であり、それがこの場所で言う漁師さんのようだ。いつでも謙虚に、人との繋がりを大事にしていることを、この数日、一緒にいて感じる。

ツアー参加者には色んな人がいる。12名が一致団結して、お互いを尊重し合えるかというとそうでないタイミングもある。少し、誰かが我慢しなければいけなかったり、皺寄せがあることもある。

厳しい自然の中での集団生活。色々ある中で、自分の器量が問われた気がした日だった。
20時過ぎ、テントに戻って眠りについた。

5日目 7月4日(木)

3時頃、起床。
一旦、外の様子を伺いにテントを出る。出られそうだ。朝日が昇る中、火を焚いてコーヒーを淹れる。
この日の朝も色々あったが、割愛する。終えた後に、新谷さんがダライ・ラマとの話を教えてくれた。ダライ・ラマの公演を聴く機会があり、その慈悲の心や、目の前のことをちゃんとやりなさい、と発言されたことに感銘を受けたそうだ。目の前のことをやるって、意外と簡単じゃない。

朝食のサンドウィッチを作っていく。同時進行で、カヤックに乗る準備をする。テントをたたむ。個人装備も、食材などの共同荷物もカヤックに入れる。
カヤックを漕ぐのは初日に3時間漕いだぶり。いよいよだ。

5時40分頃、出艇。酔いそうだということなので、タンデム艇の前後を入れ替え、私が前、友人が後ろを漕ぐことになった。私は写真も撮りたかったので、ちょうどよかった。

漕ぎ始める。海は、やはり自由だ。
数日前の嵐は嘘のように、風も波も心地よい。

左手に知床半島を眺めながら、漕ぐ。

時々、定置網があり、ブイとブイの間、漁網の上を越えていく。
作業している漁船には近づかず、進路の邪魔にならないように、ある程度まとまって岸寄りを走る。少しの波でもひっくり返りそうな小さなカヤックは、漁船から見るととても気を使う存在だろう。無駄な心配をさせることも、こちらが作業の邪魔をすることもないように、新谷さんの指示に従って漕ぐ。

カブト岩が見えてきた。新谷さんの艇を先頭に、一列になって岩礁の間を通る。
浜が途切れ、崖や岩礁が広がるポイントは、風の吹き方も変わり、波も立つ。落ち着いて、丁寧に水をつかんで漕ぐ。

今回のツアーは、カヤック経験者が多かったため、色んなアドバイスをもらうことができた。波が立っているならその波にパドルを当てるように漕ぐこと、止まっている時もパドルで水をつかんでいること、波があるときはとりあえず漕ぎ続けること。下半身はガニ股にして膝と尾骶骨の3点でカヤックを抑えること、腕ではなく腹筋で漕ぐこと、パドルは引くのではなく押すこと。
体を動かすことが好きなので、いろんな実験をしながら漕ぐ。

7時40分頃、気が付けば、知床岬が目の前だった。灯台が見える。
隊は、少し沖に進み、岸から数100m離れたあたりで岬を越える。
チンしても復旧できるようカヤックは岸寄りを進むのが基本のため、沖に出ることは少ない。また、聞いていた話、知床岬を越える際はほぼ岩礁に乗り上げながら進むようだったが、この日は違った。後ほど聞いた話、これほどまでに沖を回った岬はあまりない、ということだった。
知床半島の中でも、ウトロ側と羅臼側、どちらの風の影響も受ける知床岬近辺は、特殊な海域だそうだ。
岬まで来たが、その海の様子を見て撤退をしたこともあるらしい。実は、今回もそうなる可能性は十分にあった。
今回は、行けた。
新谷さんは、俺が怠けなかったからだ、と言う。

知床岬を越え、文吉湾や啓吉湾を越え、9時20分頃、獅子岩のところで停泊する。休憩ということで、新谷さん以外の全員がカヤックから降りた。用事を済ませてまた出艇する。

よく観光船で見るウトロの景色を改めてカヤックから観察しながら、無事に岬を越えられたことを実感する。夢見心地というか、言葉にできない高揚感を感じている。12人が心身ともに無事であること、岬を越えれたこと、まだ難所はあるといえど行程を消化できそうなこと。
まだ旅は続いていることにワクワクした。

11頃、通称 落合湾に上陸し、昼食の準備をする。ここは岩清水があるので煮沸なしで水が取れる。いつものインスタントラーメンに、稲荷と海苔とネギが乗った。具材がないことがないので、インスタントラーメンでもいつも美味しい。食べ終わって少し休憩をしつつ、湾を探検しつつ、出艇の準備をした。

海に出た後、落合湾からすぐ近くの通称 海賊湾に入る。奥に滝がある、ギリギリカヤックが行き交えるぐらいの狭い入江だ。順番に入り、各々景色を楽しむ。パイレーツオブカリビアン的な感じだった。

元々、この日はルシャも越えようという話だったのだが、時間的にそこまでいかず、タコ岩で泊まることになった。途中、カシュニの番屋付近で休憩をとり、タコ岩を目指す。
このときすでに15時を過ぎており、天気図を書くために新谷さんだけが先にタコ岩に向かっていた。

休憩していた石浜から出艇する。
出艇の際は初心者組のサポートも必要なので1艇ずつ順にいく。8艇全てが揃うまで時間がかかるので、沖で後続組を待つ。大体出艇したのが見えたので進む。岸寄り、岩礁の合間を縫って、波に煽られながらカヤックを漕ぐ。海は浅く、白く青っぽかった。

私たちが岩礁を抜け、後続組を待っていたがなかなか来ない。どのようになったか忘れてしまったが、ノリコさんとウメちゃんが乗るタンデム艇がチンしたようだった。タカシ兄弟も一緒にいるようだが、トッチさんとコンドウさんのタンデム艇が様子を見にいくことになり、私たちとキガくん、ニナさんはワタナベさんが率いて先にタコ岩を目指すことになった。
途中で通ったカシュニの滝は、相変わらず美しかった。

ものの30分ほどでタコ岩についた。ちょうど、新谷さんが焚き火の前で天気図を書いていたところだった。

天気図を書き終えた後、状況を説明する。
私たちは待つしかないので、自分たちのカヤックや荷物をあげ、テントを設営することになった。新谷さんはみんなを労わりながら、これでも食えや、と行動食用のベーコンと、大福を分けてくれた。食べると、少しだけ気持ちが落ち着いた。

そこから30分ほど経った頃、カシュニの方向から来るカヤックが1艇だけ見えた。トッチさんとタカシさんが乗ったタンデム艇だった。
状況を聞くと、チンした2人は無事岸に上がっているが、カヤックを引き上げる際、ウメさんの足に激突し、もしかすると骨にヒビが入っている可能性もあるということだった。また、トッチさんとタカシさんは、とりあえず荷物をたくさん積み込んで来たようで、また戻るということだった。

日が長いといえど、もう17時近い。日没が迫る。

トッチさんとタカシさんの他、新谷さんとニナさんも行くことになり、必要なカヤックを下ろす。新谷さんは、1人でタンデム艇を漕ぐそうだ。
残された私たちは、新谷さんが残した指示のもと、火を焚き続け、できる限りの夕食の準備をした。

もうこの生活も5日目。慣れたものだ。
途中、藪にいたヒグマが出てきたりもしたが、のそのそと歩いて海を泳いでいった。火を焚き、私は玉ねぎを切ってスープ用に湯がいた。

18時頃、海にカヤックが見えた。3艇だけ先に来たが、後にも3艇続いており、18時30分頃、全員がタコ岩にそろった。
カヤックを浜にあげ、荷物を出し、振り分ける。結局、ウメさんの足は痛みはあるが腫れ少なく、心配なかったようで、翌日は普通にカヤックを漕いでいた。何事もなく良かった。

テントの設営を終え、暗くなった頃に夕食を食べた。ボリュームのある鶏肉とわかめご飯だった。友人と、最終日にとっておいたビールを冷やして飲んだ。格別だった。21時頃、寝た。

6日目 7月5日(金)

4時前に起床。朝ごはんを食べずに出発する、ということだったが、準備をしているとなぜかラーメンができていた。ありがたく食べた。沖には漁船の姿が見える。

5時30分頃、出艇。
順調にいけば、今日中にウトロに着く。今日の海は、見事な凪だった。

ニナさんが気を利かせてくれて、私と友人をそれぞれシングル艇に乗せれないか新谷さんに相談してくれた。代わりに、ニナさんはノリコさんとタンデム艇に乗った。シングル艇は、タンデム艇より安定感はないが、自分が漕いだ分、自分が操作した分、カヤックが動くのでより楽しい。今まで以上に、行きたいところに行ける。タカシさんに、改めて漕ぎ方を教えてもらって、ひたすら漕いだ。2人には感謝しかない。

6時30分頃、滝の下番屋を通過。
この辺りから、ルシャに入る。「ルシャおろし」というとんでもなく吹き下ろしの風が吹くイメージのルシャだが、今日は落ち着いていた。岸寄りを進み、19号番屋を眺め、クマを探す。ちょうどテッパンベツ川あたりに歩いているのが見え、新谷さんの指示のもと、近づき過ぎず観察した。首輪がついた単独メス成獣だった。

7時30分頃にはルシャを抜けた。新谷さんがおもむろにレーズンパンを出し、切り分けてみんなに配る。

自分ながら、水を得た魚のようにカヤックで動きまわった。先頭を走る新谷さんの艇に追いつきは話しかけては、漕ぐのをやめて写真を撮り、地図を見たり、地形を観察したり。遅れた分はまた漕いだり。
凪だったこともあって、はしゃぎまくっていた私を見かねて、新谷さんが、カヤック、知床に置いていってやるか、と言ってくれた。とんでもなく光栄なことだと感じた。嬉しかった。あまり考えず、二つ返事をした。置き場所と車のルーフなど、必要なものはあるがなんとかなるだろう。
カヤックがあれば、私の世界はまだまだ広がる。

大事なことはシーマンシップだ。
と、新谷さんはいう。
漕ぎ方やらなんやらの技術や知識は役に立たないことがある、海は自由だが関わる人をお互いに尊重し合える心構えが大事だと。暴風で避難した番屋の中で、ガイドは人格者であることが大事だ、という話をしていたのも思い出した。自分はどのように自然や人と向き合いたいのか、問われている気がした。私の感覚は、新谷さんと近いような気もする。

あと、新谷さんがしきりに、君たちの知床はいいところだよ、言っていた。これからは君たちの時代だからね、とも。
6日間、一般的な人間社会と経済、いつも聞こえてくるノイズから離れ過ごした。でも、やっぱりまだ、うまく言葉にできない。私はどのようにこの地と向き合いたいのか。どのような選択と行動が、私らしいのか。私は、世の中に対する大きな決定はできない。だけど、自分の身一つで責任を負えるぐらいの行動はできる。

人間に生まれ、人間として長生きして死ななければならない以上、自分が好きなものに対して、適度に命を削れる人であり続けたい。

それだけを漠然と考えている。
あまり考えすぎるのも良くないけど。

観光船を横目にカムイワッカの滝を通り、五湖の断崖で洞窟を入った。11時30分頃、その先にある浜に上がって昼休憩をとった。ただただ。焼いただけのソーセージが体に染みる。

休憩もそこそこに出艇する。凪だ。気持ちがいい。見知った断崖と森を眺めながら、ケイマフリを探し、漕ぎ進める。プユニ岬の先に、ケイマフリが50羽ぐらいいてびっくりした。それも束の間、もうウトロが見える。帰ってきた。

幌別海岸に上陸する。漁師さんの浜を借りているので、あまり長居することなく30分で撤収する。テキパキと、荷物をあげまとめ、カヤックも車に積み込む。

新谷さんが運転するハイエースで羅臼へ向かう。途中、買い出しに寄ったツルハでアイスを買ってみんなで食べた。冷たさと、甘さが体に沁みた。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?