笑って老年 模型工作少年 鉄道・飛行機・ラジオからラジコンヨットまで [体験記]
セメダインの甘い匂い
エポキシのうんこくさい匂い
ハンダの焼けるペーストの匂い
模型エンジンの排気の匂い
模型工作は永遠です
模型が呼んでいる
この歳になっても模型が大好きである。
自分でやっていても、人のやっているのを見ていても、楽しい。
自転車で走っていて、遠くでラジコンなどやっている現場を見つけたらもう大変である。
とりあえず予定などほっぽりだして、磁石に吸い寄せられるようにそこに直行してしまう。
いつだったか自転車で遠乗りして伊勢原の先まで行ったときのことである。相模川にかかる大きな相模大橋の上にさしかかったとき、ふと上を見上げると青空高くラジコングライダーが数機ゆっくり舞っているのが見えた。
もうたまらない、胸が高まる。
「行こう!」
小田急の鉄橋のむこうの河原のあたりでやっているようだ。
自転車をとばしてそこにかけつける。
草むらのなかに滑走路があり数人の人たちがグライダーを打ち上げていた。
降下してきたグライダーが耳元をかすめ、すてきな風切り音をたてた。
そばで見ると皆どれも細く長く美しい機体だった。
翼の長さが人の背より長い。
しばらくそこで陶然として見学した。
模型工作少年 木のレール鉄道・竹ひご飛行機
子供の頃から模型工作が好きな少年だった。
駅の近くの路地の奥の、アーケードの中に小さな模型屋があって、目玉のぎょろりとしたおばさんが店の奥にすわっていた。
お小遣いを持ってこの模型屋に行くのがなによりの楽しみだった。
店には、工作用の細い木の角材や竹ひご、接着剤のセメダイン、船や飛行機や鉄道模型用のパーツ、モーター、電池、豆電球などなど・・・・
細かい品々がびっしりと並んでいた。
また、奥の壁ぎわには細長い紙の袋に入った模型飛行機の組み立てキットが大小立てかけられていた。
これらの細々したものを、一つ一つ見ているだけで楽しく、時間のたつのも忘れた。
少年の私はうっとりとしてこれらをながめてから、角材やら何やらこまごまとした材料を買って帰ったのである。
小学生のころ、木の角材でレールを作り、貨車を走らせて楽しんだ思い出がある。
当時の鉄道模型はOゲージといい、線路の巾が三十二ミリと大きく、作りやすかった。
今はNゲージが主流で、線路の巾が九ミリと小さいから、子供が作るにはちいさすぎる。
たくさん切った角材の枕木の上に、同じく角材のレールをセメダインで接着し、そのレールで貨車を走らせるのである。
そのころJRは国鉄と呼ばれ、家の前の東海道線は電車、列車、貨物列車が走っていて、入れ替え用の蒸気機関車も活躍していた。
貨車は家の前でよく止まっていたので形はよく知っていた。
木造の黒い貨車の側面の下の方に、白い字で、ト、トム、トキ、トラ (古い記憶なので間違ったのもあるかもしれない)などと書いてあったのを思い出す。
これは貨車の種類をあらわし、トは一番小さい無蓋(屋根のない)車だった。私はこれをまねてつくったのである。
模型屋で真鍮の車輪二個と軸受け四個を買ってきて、木の板で作ったふたのない小さな長方形の箱の裏に、取り付けただけのものである。
直線のレールの上をただ左右に行ったり来たりさせるだけでは、あまりおもしろくない。
私はポイントに興味があった。
ポイントのことを子供のころは「分かれ線」といっていたような記憶がある。
レールの一部をちょっと動かすと、貨車が隣のレールに移動する。このメカがたまらなくおもしろかったのである。
この「分かれ線」をぜひ作ってみたかった。
当時横浜市内では、市電という路面電車が走っていて、保土ヶ谷駅はその始発駅だった。
路上の始発駅の手前で上り下りの二本のレールが一本になり、乗降場所に入ってくる。
つまりそこにポイントがあったのである。
やってきた電車が、ギギギッときしみ音をたて、カーブしながらポイントを通過する。
私は目をこらしてうっとりと、ポイントをながめたものだった。
自作のポイントを手で動かし、腹ばいになり顔を畳にすりつけて、ポイントをながめる。
手で貨車を動かし、ポイントの上を通過させる。貨車はカーブして隣の線に移動していく。
私は飽きずに貨車を移動させ、少年の日々の至福の時間をすごした。
同じ小学生のころ、模型飛行機もずいぶん沢山作って遊んだ。
組み立てキットの入った、細長い紙の袋を開けると、原寸大図面という設計図と角材、翼になる曲げられた竹ひご、リブといって翼に曲面をつけるパーツ、木製のプロペラなどがでてくる。
ほかにもプロペラを固定するコの字型のコメタルというアルミの部品、
竹ひごをつなぐアルミのニューム管、
脚になるピアノ線や車輪、
動力となるゴムひも、
翼となる薄い紙・・・・などなどが出てくる。
畳の上にこれらを広げたら、もう食事も風呂もそっちのけで、製作に没入する。
まさに至福の時であり無我の境地である。
私はやりだすといっきに作ってしまうタイプで、夜、母親に「もう遅いから明日またにしなさい」としかられたことがたびたびあった。
広げた原寸図の上で角材と竹ひごを並べ、位置を印してセメダインで接着していく。
接着剤のセメダインの匂いは今でもなつかしい。
ちょっと甘いいい匂いで、指先に着いたのをぐりぐり丸めながら取り去る。
その後、もっとリアルなセスナ機を作った。
胴体が一本棒の角材ではなく、角胴といってふくらんだ、本物の飛行機の形をしているのである。
できあがったときはうれしかった。
いままでの簡単な角材の機体よりひとまわり大きいし、太い胴体をにぎった感覚が新鮮だった。
この飛行機は小学校の二階の教室から飛ばしたことがある。
塗装して重くなってしまい、非力なゴム動力では上昇できなかった。
真っすぐ飛んでいってゆっくり落下し、飛行そのものはあまりおもしろくなかった。
小学校高学年のころは、模型のモーターをいくつか作った。
当時電気模型工作キットとして小さいボール紙の箱に入れられて模型店で売られていたのである。
薄い鉄板を重ねたものに紙を巻いて、エナメル線という銅線をぐるぐる巻きつけ回転子というものを作る。
この外側に丸い電磁石を取り付け、集電端子ではさむとモーターが完成する。
回転子の銅線巻きつけ部の数により、二極モーター、三極モーター、五極モーターなどとよばれ、おもしろかったのは二極モーターで、ある角度のとき死点で、自分では回りだせないのであった。
指でちょんとつつくと、びーっ、と回りだす。
この、乾電池をつないで回転するときが楽しかった。
ちいさい羽根をつけて、ミニ扇風機になるキットなどもあった。
鉱石ラジオと五球スーパー
私は男三人兄弟の長男である。
下の弟二人は模型工作には興味がなかった。
すぐ下の弟は切手収集が趣味だった。
世界の珍しい切手、きれいな切手をたくさん集めていた。
兄弟で私だけ工作好き少年だったのである。
私はそのころ「模型とラジオ工作」という雑誌を読んでいた。
工作少年にはたまらなくおもしろい本で、毎号さまざまな飛行機、鉄道、ラジオなどの工作記事が掲載されていた。
あるときその雑誌に、鉱石ラジオの作り方の記事がのっていた。
鉱石ラジオというのはいちばん簡単な構造のラジオで、ごくわずかな部品をつなぐだけでできるのであった。
もちろんお金もそんなにかからない。
私はさっそくこのラジオを作ってみることにした。
電気部品店にいき、コイル、バリコン、鉱石検波器、接続ターミナル、マグネチックレシーバー、それに配線用ワイヤー、半田ごて、半田、ペーストといったものを買ってきた。
初めて見るこれらの部品は、それぞれ不思議な形をしており、未知の体験にのぞむ工作少年の胸をときめかせた。
使用済みのかまぼこの板の上に、部品を取り付け、半田ごてで配線して、鉱石ラジオは完成した。
夜遅かったような記憶がある。
どきどきする心をおさえて、アンテナ、アースを接続し、マグネチックレシーバーを耳にかけた。
しかし何も聞こえない。しーんとしている。
私は何か音楽とか人の声が、電話のようにはっきり聞こえるものと思っていたのだった。
しばらくして耳が慣れてくると、なにかざわめきのような音が聞こえてくるような気がした。
人の話し声のようだった。
アナウンサーがなにかしゃべっているのである。
蚊の鳴くようなちいさな声で、何か言っているのはわかるが、話の内容までは聞き取れなかった。
鉱石ラジオには、音声を増幅する回路がないため信号が微弱なままなのであった。
あとになってわかったのであるが、鉱石ラジオにはマグネチックレシーバーは無理だったのである。
微弱な信号にはクリスタルレシーバーというのがむいていたのだった。
しかしラジオが聞けたという感激は大きく、もう父も母も寝てしまった深夜、ひとりで感動にひたっていた。
私の父は銀行員で、機械や電気は全くだめだった。
私は父の代わりに、切れたヒューズを取り替えたり、とれたコードをつないだりしていた。
中学生のころになると、五球スーパーのラジオを作った。
これはもう本格的な実用ラジオで、当時売られていたラジオとおなじ性能だった。
父と秋葉原の模型店に買いにいったのを憶えている。
木製のケースつきだったので大きく重かった。
五球というのは、真空管が五本あるということである。
真空管というのは、今でいうトランジスターのようなもので、音声を増幅する主要パーツであった。
ナスのような形をしたガラス管の中に繊細な形をした金属部品が封入されていて、電源を入れるとその金属部品の中央がポーッと赤く光ってくる。
するとブーンという音とともに音が聞こえてくるのである。
ずっとつけたままだとガラス部分がさわれないくらい熱くなる。
いま考えると、不思議な神秘的な、魅力ある部品だった。
五球スーパーといっても組み立てキットを作っただけである。
実体配線図というイラストを見ながら作っていけばいいわけで、たいして難しい製作ではなかったのだが、無事出来あがってケースに入れ、音が出てきたときは感動した。
鉱石ラジオとははるかに違う音量で、明瞭に放送を聞くことが出来たのである。
あこがれのエンジン機からグライダーへ
わたしはあこがれのラジコン飛行機を買った。
三十歳を過ぎ、フリーのデザイナーとして忙しかったころだった。
おかしなもので仕事が忙しくなると、むしょうに模型でも作りたくなってしまうのだった。
ムサシノ製「スカイカンガルー」というラジコン飛行機の組み立てキットを購入してきて、その紙の箱をながめながら仕事をした。
人参を馬の顔の前にちらつかせて走らせるのと同じ仕掛けである。
こうすると、模型を組み立てる時の楽しさを想像して、仕事がはかどるのであった。
銀色に輝くエンジンを手にとってみる。
金属の重さを感じる。
木製のプロペラを取り付けて指で回してみる。
「ボロン、ボロン」と回転する。
ゴム動力機のプロペラと違い、しっかりと丈夫そうなプロペラだった。
小さなマフラーも付属している。
排気音を減少させるためである。小さくても本物のエンジンなのである。
初めてのラジコン、初めてのラジコン飛行機、初めてのエンジンだった。
子供のころ、模型屋の天井からぶらさがっている、銀色に輝く「ムスタング」は、あこがれのエンジン機だった。
当時まだラジコンなんてなかったはずだからUコンだったと思う。Uコンというのは、翼に二本の長いワイヤーをつけて、自分を中心にしてぐるぐる回して飛ばす方式である。
ワイヤーをコントロールするとエレベーター(水平尾翼)が動き、機体を上昇下降させることができた。
仕事がかたづくと、さっそく機体の製作にはいった。
この「スカイカンガルー」という機体はスローフライトで飛ぶように設計されており、大空を鳥がゆっくり舞うように飛ぶのである。
私は速いものは好きではなかった。
曲技飛行などで、ものすごい速さでくるくる飛び回るラジコン機があるが、情緒がない。
ゆっくりと、とんびが空にただようように浮かび、着陸はふわふわとこちらに向かって降りてきて、手で機体を捕まえるハンドキャッチというのがしてみたかった。
組立キットの長方形の箱を開けると、折りたたんだ設計図とバルサの角材、薄板、型ぬきされたリブなどがあらわれた。
さすがに子供のころ作ったゴム動力の飛行機と違って、パーツが多く大きく、本格的なラジコンキットの風格を感じ、ぞくぞくする。
ベニヤの大きな作業板の上に図面を広げ、四分割した翼を個別に作って行く。
角材を上下中央に配置し、所定の位置にリブを並べ、上から針を刺して固定し、瞬間接着剤で接着していく。
このときねじれがあると真っすぐ飛ばないので、慎重に正確に作業を進める。
緊張するが至福の忘我のひとときでもある。
この機体は翼が長いので、一体に作ってしまうと運搬がたいへんなことになる。
私は左右二分割方式にした。現場で左右を結合し一体にするのである。
翼を作ると、胴体の製作にはいる。
さすがにエンジン機の機体は大きい。
前後分割して作り接合する。
翼、胴体の骨組みが完成した。
こんどはフィルム貼りである。フィルムというのは、ゴム動力機の場合の翼に貼る薄い紙にあたるものである。
ひととおり貼り終わったらドライヤーの熱風を吹きつけ、フィルムをぴんとさせる。
この機体は翼長1.4メートルあり、狭い部屋のなかではとても大きくみえた。新品のエンジンはそのままでは使えない。
慣らし運転をしなければいけない。
木の箱にエンジンを仮止めし近所の山へ行った。
畑のすみでタンクに燃料を注入しプラグに電池をつなぐ。
いよいよ生まれて初めてのエンジン回転である。
期待に胸がときめく。
プロペラを指ではじく。
「ボロロ、ボロロ、ボロロ」低い音が続く。
「ビュー」エンジンが回転した。
「ギーッ」と高音に変わっていく。
キャブレターを調整して低回転に落とす。
そのまま回しておく。
感動である。
いまエンジンが回り続けている。永年の夢がいま実現しているのだ。
こうして子供のころから夢見ていたエンジン機が完成した。
さて、どこで飛ばすか? 次の問題だ。
家の近所にはラジコン機を飛ばせるような広い場所がない。
初飛行は相模川の河原に行った。
翼を取り付け、エンジンをかける。
「バサーッ」と機体全体が震動する。
燃料の匂い、機体をグイッと引っ張る力、もうこれだけで私は完全に平常心を失ってしまい、放心状態で斜め上空に向けて機体を手放した。
その後のことはよく覚えていない。
気がつくと、はるか向こうの草の上に機体が落下していった。
今思うと、よく河に落ちなかったものだと思う。
機体は草の中につっこんでいて、翼の右前部がつぶれていた。
これが初飛行のすべてである。
一瞬の悪夢のような光景であった。
その後機体を修理し、懲りずにこんどは多摩川の河原に行った。
東急線新丸子で降り、幼い長男とふたりで土手まで歩いていった。
ここでは付近のラジコン愛好家が、それぞれ愛機を持ってきて飛ばしていた。
同じ趣味の人というのはすぐ親しくなれる。
私と同じような機体を飛ばしていたKさんに私の機体を飛ばしてもらった。
悪夢のような初飛行とは異なり、私のスカイカンガルー号は上空高く、ゆうゆうととんびのように飛び回った。
「ちょっとやってみますか?」
Kさんが送信機プロポを渡してくれる。私はおそるおそるレバーをいじり操作した。
だんだん機体が河のほうに遠ざかって行く。しだいに機体が小さくなっていく。
もし一人だったらパニック状態におちいるところだ。
あわててプロポをKさんに戻す。
Kさんは落ち着いてプロポを操作し、機体を大きく回転させてこちら向きに戻した。
機体は緩やかに降下してきて足元にすーっと着陸した。
「素直ないい機体ですよ、製作が正確にできています」
とKさんにいわれうれしくなった。
帰りがけ、Kさんの家に招待された。
この近所にお宅があるという。
Kさんは私の長男と同じくらいの小学生の娘さんと一緒で、四人で多摩川の土手を歩いていった。
Kさんのお宅でお茶をごちそうになり、ラジコン用のめずらしいパーツなどいただいて帰宅した。
あとで分かったことだが、Kさんは東芝の研究員で工学博士だった。
雑誌「ラジコン技術」などにも技術記事をのせている研究者だった。
エンジン機が私にはハードルが高すぎるのがわかって、グライダーを作ることにした。
グライダーならずっとのろいし、あのエンジンの緊張感もない。
ムサシノ製の「スカイエコー」という「スカイカンガルー」よりひとまわり小さいグライダーのキットを買った。
そのグライダーは今、この文章をパソコンで打っている私の頭の上の天井にぶらさがっている。
渋柿色の紙を貼った翼はあちこち紙が破れ、サーボなどのメカを外されているが、おだやかな老後をすごしている。
エンジン機と違い、グライダーは自分では動力を持たないから、上空に行くのに手を貸してやらなくてはならない。
そのためショックコードという長いゴムひもを用意し、一端をフックで地面に固定し、他端をグライダーに引っかける。
そのままゴムをどんどん引っ張って行き、ビーンと張ったところで手を離す。
なんのことはない、石ころの代わりに飛行機を飛ばすパチンコなのである。
するとグライダーはゴムに引っ張られてビューンと急加速で前進し、グイッと、いっきに急上昇していく。
このときがグライダーの飛行でいちばん緊張する瞬間であり、ダイナミックな場面でもある。
なにしろ太く長いゴムひもが引っ張っているから、その張力が強い。
手放すときのフォームが大切で、これに失敗すると機体が斜めに飛び出し、地面に激突して大破してしまう。
あっというまに上空に達したグライダーは水平飛行に移り、自然にゴムを落とす。
ここからはのんびりした飛行になり、ゆったりと空をただよっていく。
遠ざかっていく機体を、ラダー(舵)を打ってこちら向きに戻す。
エンジン機と違って反応がワンテンポ遅く、おだやかなので気が楽である。
大きく回りながらしだいに高度が下がってきて、ゆっくりこちらに向かい、近くの草原に着陸すればそれでOKだ。
私は、グライダーは一人でなんとか操縦できるようになった。
電動タグボートでボール拾い
家の近くに大きな公園があり、大きな池があった。
休日など釣り人がおとずれ、のんびり一日なにか釣っている。
私は小さい息子二人をつれて、よくこの公園に遊びに来た。
この池でラジコンの船を走らせたら楽しいだろうなと思った。
わざわざ多摩川まで遠征しなくても、手近なここならいつでも気軽に遊べる。
小さな電動漁船キットを模型屋でみつけ、買ってきてラジコンモデルに改造することにした。
全長三十センチほどの木製の小さな船である。
そのままでは小さすぎてメカを組み込めないので、船底を下げて容積を増し、浮力を大きくして沈まないよう改造した。
エンジン機のメカを外してこの船に取り付けることにした。
動きをコントロールするパーツにサーボというのがあり、ひとつをラダー(舵)、もうひとつをモーターコントロールにした。
モーターのスピードコントロールにはアンプというパーツがあるが、こんなのは自分で作ったほうが楽しい。
マイクロスイッチという小さなスイッチを何個か買ってきて、サーボのまわりに配置し、加減速の素朴なメカを作った。
出来あがって、さっそく公園の池で試運転をすることにした。
ところが水に浮かべてみると船が斜めに傾いてしまった。
この船は船体の上に、運転室や船倉、煙突などが一体になった上部構造物がのっかるのだが、この重さで斜めに傾いてしまうことが分かった。
その上部構造物を外すと水平になる。
わたしは上部構造物を着けないで、ラジコン船を走らせることにした。
前進、後退、停止、中速、全速がぴたりと決まり、おもしろい。
船体を深くしたので安定感があり、小さな波には踊らされず進む。
カーブさせるとわずかに傾きながら、いっちょまえの航跡をひいて進んでいくのが楽しい。
停止にしても船体が重いからすぐに止まらない。
ゆっくり減速していくのがリアルっぽく、元工作少年の心を熱くした。
ただ運転室などがなく、前後の二本のマストだけなので、見ていて物足りないのが残念だった。
この船は私の二人の息子にちなんで「K・N号」と命名された。
上部構造物なしで走る「K・N号」にあきたらず、私は「K・N二号」を作ることにした。
初代「K・N号」のデータ、経験が色々新規設計の役にたった。
今回はキット流用ではなく、すべて自作でいくことにした。素材も木ではなく、プラ板で作ることにした。
全長は同じ三十センチにこだわった。このサイズが持ち運びにちょうど手ごろだったのである。
CADで設計し、曲面をえがく船体側面部の展開図を画く。
切断されたプラ板同志を接合し、三角断面のプラ材を接着して補強していく。
角のエッジ部分をやすって丸みをつけ、最後に塗装して船体は完成した。
こんどは漁船ではなく、タグボートにした。
タグボートというのは港などで、大型の客船を横から押して接岸させたりする小型の作業船である。
メカを取り付け風呂の水に浮かべてみると、こんどは上部構造物を付けても安定している。
さっそく公園の池に行って初航海をした。
運転室、煙突、換気用ベンチレーター、マストなどがついているので、リアルで本物感があり、会心の笑みが浮かんできた。
走行性能もゆったりと安定していてまずまずだった。
急カーブをきってもわずかに傾くだけで、どっしりと安定感がある。この船も「K・N号」と命名された。
「K・N号」にはおもしろいエピソードがある。
池の前は広い広場で、池の右手は高台にある野球のグランドだった。
広場でボール遊びしている子供たちのボールが時々じゃぼーんと池に落ちてきた。
またグランドを飛び越えた野球の球が池に飛び込んでくることもあった。
その時「K・N号」が活躍するのである。
小さく、小回りが利くので船の先でボールを押してこちらに持ってくるのである。
見守っている子供たちは喜び、船を操作するラジコンおじさんも楽しく、感謝され、とてもよい気持になるのであった。
初代、二代目の二隻の「K・N号」はいま、この部屋の入り口の玄関の靴箱の上に並んで飾ってある。
二人の息子はとっくに成人してしまった。
すっかり出番のなくなった二隻の「K・N号」は、うっすらとほこりをかぶり、春の日差しのなか、往年の楽しかった航海を思い出しているようだった。
ラジコンヨット、二十五年現役
いまこの文章をパソコンで作成している私の、後ろの棚の上に小さなヨットが飾ってある。飾るというよりは置いてある。
というのはこのヨットは現役のヨットなのだ。
きのう、久しぶりにいつもの公園の池にいってこのヨットで午後の二時間ほど遊んできた。
この組み立てキットは二十五年ほど前に購入した。
AGインダストリー製で「カップレーサーCR50」というような名称だったような気がする。
全長五十センチ、全高八十センチほどの小さなヨットである。
横浜駅西口にあった大型模型店の広い地下売り場で買ったのを憶えている。
この店はとっくの昔消えてしまって今はそのおもかげもない。
船体は白いプラスチック樹脂製で、黒く細いカーボン製のマストが船体中央に立ち、前後に二枚のセール(帆)がついている。
どうしてラジコンヨットをやるようになったのか、思い出せない。
モーターも付けず、動力なしで動くというところに、なにか魅力と神秘を感じたのが、きっかけだったような気がする。
プロポ、サーボ、受信機などの部品は買った当時そのままのものである。すごい耐久力である。
セール(帆)だけは一番傷みやすい消耗品で、もう何回も更新している。
そのつど、薄いビニール袋をさがし、きれいな色の袋が見つかると、解体してセールにしている。
船体は、購入当初は純白できれいだったが、年月がたつと経年変化で黄ばみ、また擦り傷などできたなくなってくる。
そうなると、スプレー塗装して美しく塗り変える。
現在はシルバーと白色の二色に塗装されている。セールは黄色である。
航行中シルバーがきらりと反射しかっこいい。
どうして二十五年もの長期間このヨットの趣味が続いたのか考えてみた。
まず最初は、この模型がこわれずに今まで生きてきたことによる。
家電製品でも二十五年も続けて使っているものなんて、まわりを見回してもない。
長命長寿が第一の理由である。
次は立地条件である。
たまたま近所に大きな公園があり、大きな池があった。いつでも気軽に歩いていけるというのは好都合である。
もしこの池がなかったら、どこか別の池にいかなくてはならない。ちょっと離れたところに「四季の森公園」という大きな公園があり、かなり大きな池があるが、ここは管理がきびしく釣り人もいない。
経済性もある。
いったん買ったらあとはまったくお金がかからない。
ラジコンヨットは動力がないからモーターを回す電源がいらない。
もちろん受信機、サーボには電源が必要だから充電可能なニッカド電池を搭載している。
しかしこの電池は充電して何度でも繰り返し使えるし、電池の消耗がごくわずかでなのである。
一日遊んでも電池がなくならない。
以上が思いつく主な理由である。
しかしもっと本質的な理由がある。
奥が深いのである。
ふつうラジコンというと、ラジコンカー、モーターボートなどのほうが一般的である。
子供などはラジコンカーが大好きである。この大池公園でも時々子供が遊んでいる。
これらは右でも左でも自分の思い通りにコントロールできる。好きなスピードで走らせられる。
ところがヨットの動力は風である。
強い風もあれば弱い風もある。
強風で航行不能の日もあれば、ぱつたり風がなくなり身動きできない時もある。
おまけに風はどちらから吹いてくるかわからない。
低気圧が接近しているときなど、ぐるぐるぐるぐる、あっちゃこっちゃから気まぐれに吹いてくる。
ようするに自然相手なのである。自然次第なのである。
その日の天気と同じで毎回条件が異なる。季節によっても風は違う。
一日の中でも早朝の無風のひととき、微風の午前、強風に変わった午後、ということもある。
これだからヨットは飽きないのである。
きまぐれな自然相手なので飽きることがないのである。
その日風の状態がわるかったらきっぱりあきらめて中止する。またよい風の日遊べばいいのである。
ヨットはモーターでガンガン走り回るものにくらべて、静か(無音)だし、一見地味でつまらなさそうに見える。
しかしヨットの楽しみは奥が深いのだ。
風が真正面から吹いてくるとする。
そのときヨットを風の方に進めたい。
こういう場合、直接真っすぐは進めない。吹いてくる風に向かっていくことなどありえないからだ。
ヨットは斜め前方に右、左とジグザグに前進していく。
これがモーターで動くのならこんな走り方はしない。ただ目標に向かって真っすぐ進むだけである。
刻々変化する風を読みながら進むのがヨットのおもしろさである。
たぶん本物のヨットと水上バイクも同じような違いがあると思う。どっちが好きか、どっちが楽しいか、それは個人の勝手である。自分が好きなものを選べばよい。
きのうの午後、公園にいって久しぶりにヨットを走らせた。
暖かな日だったがあまりいい風ではなかった。
安定した風ではなかったのである。
時折ぴゅーっと吹くと、しばらくぱったり止まってしまう。
こういう風だと落ち着いて走行できない。
急に走り出したりぶらぶら止まっていたり、疲れる。
二時間ほど走らせてベンチに引きあげ、あとは音楽を聞いていた。
春は色々な風が吹く。
春一番の日は土埃の強風でまともに目も開けていられない。
ぽかぽかとおだやかに、水面が鏡のように平らでまったく風のない日もある。
私の好きな日は、たんたんと東風(こち)が吹く日である。
毎春かならず何回かこういう日がある。
風というより大気全体がゆっくり移動しているという感覚である。
一定の速度で流れていく定常流という感じで、こういう日のヨットは楽しい。
風上に向かってセールをいっぱいに引き絞り、失速寸前のぎりぎりの角度でジグザグに切り上がって行く。
はるか向こうまでいったら反転し、こんどは二枚のセールを大きく蝶のように開き、両手いっぱい背中に風を受け、真っすぐこちらに走ってくる。
または自分の足元にヨットをもってきて、子犬がくるくる回って遊ぶように、小回りで円をえがいて回らせる。
ヨットがペットになったようでおもしろい。
こんなことをして半日過ごすことができるのである。
ヨットを浮かべて遊んでいると、ギャラリーができることがある。
たいてい、操縦している私のうしろに立って、いっしょにヨットをながめている。
そのうちはなしかけてくる。
「これはモーターで動いているんですか?」
「いや、風の力で動いているんですよ」
「ほう、よく動きますね」
「あんなに斜めになってよく倒れないですね?」
「下におもりがついているから大丈夫なんです」
「池のまんなかで風がなくなったらどうするんですか?」
「まるっきり風が無くなることはないから、なんとかなるんですよ」
とまあ、こんなような会話が交わされる。
これだけ長くヨットをやっていると、当然いくつか失敗談も生まれる。
夏のあるときのこと、ずっと晴天が続き池の水面がかなり下がっていた
池のまんなかを走っていたヨットが突然何かに引っかかって止まってしまった。
しっぽを捕まえられた猫のように、ゆらゆらゆれて進めない。
ちょうどそのあたりはふだんでも浅い場所で、ヨットの底が池の底に乗り上げ座礁してしまったのだった。
いくらコントロールしてもゆれるだけで動けない。
初めての体験だった。
突然の事態で私は茫然としてしまった。
もうこのヨットもおしまいかと思った。
あたりは暗くなってきて夕方だった。とりあえずその日はヨットをそこに残して、手ぶらで家に帰った。
家で色々考えた。
園芸用の緑色の支柱はどうか?
あれを何本もつないでそれで捕まえよう。
翌日、支柱を買って池にいき、長くつないで先端に丸い輪っかを取り付けた。
ズボンのすそをまくって靴をはいたまま池の中に入っていく。
池の中の土は軟らかかった。一歩進むたびずぼっともぐる。
足を抜こうとすると、靴がぬげそうになる。
膝小僧のあたりまでもぐって、ようやくヨットにとどきそうな距離にきた。
つないだ釣り竿をそろそろと伸ばしマストを狙って輪っかを引っかけた。
何回目かで輪っかがマストにかかった。竿をたぐりよせて、どうにかヨットを回収できた。
またあるときは、池のまんなかで電池がなくなってしまった。
動きがおかしい。セールが反応しない。
舵はまだ多少反応していた。
ふらふらと風に流されていくヨットの向きを、必死になってこちらに向かせていると、しだいに近ずいてくる。
セールがとんでもない方向を向いているので、動きがのろい。
やっとのことで捕まえたときは「ほっ」とした。
模型もいいけど実物も感動
船や飛行機、鉄道の模型が好きということは、もちろん本物も好きだからである。
私はかって「クイーン・エリザベス号」に乗ったことがある。
カリブ海の島々をめぐる優雅な一カ月の豪華クルーズ。
紺碧の海、グルメなディナー。
豪華クルーズはうそである。真っ赤なウソである。
グルメなディナーなど食べたこともない。そんなひまも金もあるわけがない。
ただし乗船したのは事実なのである。
QE2 (クイーンエリザベス2世号) が横浜港を訪れるというニュースを聞くたび、遠いあの日を思い出す。
下の息子が小さかったころ、横浜港に「クイーン・エリザベス号」がやってきたというニュースを知って、子供を連れて見に行った。
横浜港の大桟橋に「クイーン・エリザベス号」は停泊していた。
降りてくる船客、見物の人たちで桟橋はごったがえしていた。
桟橋に接岸している「クイーン・エリザベス号」は絶壁を見上げるように巨大で圧倒された。
絶壁ははるか向こう、桟橋の外れまで続いていた。
その絶壁の途中にいくつかドアが開いていて、飛行機のタラップのようなものがくっつき、大勢の船客が出入りしていた。
私と息子は桟橋の二階に上って、そこからこの巨大なビルのような客船をながめていた。
するとタラップの向こうから誰かがこちらに手をふっていた。
金髪の若い女性だ。
私が気がついたのをみると、おいでおいでというような合図をした。私は階段を降りてタラップの方へ歩いていった。
外人の女性の隣に同じく外人の男性がいて、二人はにこにこ笑いながら片言の日本語で話しかけてきた。
二人は夫婦で、この「クイーン・エリザベス号」の船内新聞の記者だった。
二人が招待すれば船内見物できるからいらっしゃい、と誘われた。
なにがなんだかわからないまま私と息子は、二人に連れられて船内に入って行った。
息子はこのときポテトチップを食べていて、片手に袋をかかえながら歩いていた。
豪華な大広間、クラシックな家具調度の大食堂、調理場では息子はリンゴをもらった。
二人は船の隅々まで案内してくれた。
後部甲板のプール、デッキチェアーの並ぶ長い甲板、店内の店、床屋、操縦室のうしろから見える前甲板。
階段を上り下りしてぐるぐる歩いた。
外人の女性は楽しそうに笑いながら説明してくれた。
いまになって思うのであるが、「クイーン・エリザベス号」には功なり名遂げた老人は大勢いたが、幼い子供はいなかったのだろうと思う。
たまたま幼い子供を連れた親子を見つけ、私たちを招いてくれたのだと思う。
ぐるっと案内してもらい、心から感謝して船を降りた。
その後、「クイーン・エリザベス号」がまた横浜に来た時、あのときのお礼をいおうと思っているが、いまだにその機会はない。
先日、自転車で横須賀にいき、三笠公園にある「戦艦三笠」を見てきた。
最近DVDで、「日本海大海戦」という映画を見て、本物の「三笠」が見たくなったのである。
以前司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでいたので、日本海海戦のことは知っていたが、映画で見て改めて感動したのだった。
北海からはるばる大遠征して日本海にやってきたロジェストベンスキー率いるバルチック艦隊を、東郷元帥指揮の連合艦隊がT字戦法で迎え撃つ。
その時の、東郷提督座乗の旗艦が「戦艦三笠」であった。
連合艦隊が大勝利に終わった歴史的大海戦だった。
その本物の「三笠」を見にいったのである。
「三笠」は公園のはじに動かないよう固定されていた。
排水量一万数千トンというわりには、以外と小さく見える。
「戦艦大和」のような、後の近代的巨大艦とちがって、作りがシンプルで小ぶりにみえた。
前部指揮所はちっぽけな四角いマッチ箱のようなもので、艦橋といったほどの偉容もない。
しかしこのちっぽけな指揮所から東郷元帥が指揮して、バルチック艦隊を撃破したのだった。
東郷司令長官は、防御壁に囲まれた見晴らしの悪い指揮所に入らず、ふきさらしの艦橋で指揮をとったようである。
もし一発でも大砲の弾が飛んできたら、もうそれですべて終わりだった。
見ていると、なにか胸があつくなってくる。
帰りに横須賀港で潜水艦を見た。
潜水艦を見るのは初めてだった。数隻停泊していて真っ黒で鯨の背中のようだった。
近くにはイージス艦らしき船も停泊していた。
前部にちょこんと小さい砲塔がついている。現代はミサイル戦の時代、もう大きな大砲は必要ないのであった。
自宅から自転車で三十分ほどで「厚木基地」がある。
米軍航空隊の飛行場がある基地である。
相鉄線大和駅からすこし先の、厚木街道沿いのところが基地のはずれで、ずっと金網が続いている。
手前のちょっと小高くなった所が芝生で、そこから基地の中がよく見渡せる。
家にいて、ジェット機の音がしきりにうるさい日、自転車を飛ばしてそこに行くことがある。
横須賀港に米軍の空母が入港し、その艦載機が厚木に飛んできたのである。
音がうるさいのは、艦載機が陸上で、タッチアンドゴーの離着陸訓練をしているからである。
小高い芝生の上で待っていると、背後からこちらに向かって戦闘機が低速で降下してくる。
「きたっ!」
単純な元模型少年の心は子供のようにはずむ。
飛んでいる飛行機を見るのは、そしてそれをまじかで見るのは、いくつになってもわくわくする。
機体から脚をおろし、両翼に点灯しているライトがギラリと光る。
左右の翼が微妙に揺れている。パイロットが機体の姿勢を細かくコントロールしているのだ。
声をかけたらとどきそうな頭上を、ゆっくりどっしりと、轟音とともに通過していく。
あたり一帯がびりびりと震動する。このとき耳をふさいでいないとたいへんなことになる。
現役バリバリの戦闘攻撃機FA18スーパーホーネットだ。
私はこのときめずらしい発見をした。
滑走路に向かってゆっくりと降下していくホーネットの水平尾翼が、ぴらぴら、ぴらぴら、ひっきりなしに上下に動いているのだ。
距離が近いのでこんな動きが肉眼でもよく見えるのだ。
戦闘機の水平尾翼はたいてい翼全体が可動となっている。
おもしろかったのは、機体はそのぴらぴらの動きなど知らないように、どっしりと構えて、安定して降下しているのであった。
私は気がついた。
ラジコンヨットも同じなのである。
優雅に斜めに傾いたまま、すーっと水面を真っすぐ進んでいくとき、操縦者はなにもしていないように見える。
しかしそうではないのである。
その時セールもラダーも細かく動かしている。
動かしていないとヨットはカーブしたり、姿勢がふらふら崩れてしまうのである。
たえず細かく動かしているから、ヨットはぴたりと一定の姿勢を保っているのであった。
ヘリコプターのパイロットも同じようなことをいっていた。
空中の一点に静止してホバリングしているとき、パイロットは熟練の技術の細かいコントロールにより、一定の姿勢を保持しているのである。
ホーネットのパイロットも今、着艦定位置にぴたりと停止する訓練のため、全神経を張りつめて機体の姿勢を保っているのだ。
しばらくして地面にタッチした先ほどのホーネットが、黒煙と轟音を轟かせてふたたび離陸していった。
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