[エッセイ] 盆栽風の盆栽 ──盆栽まがいを楽しむ
盆栽風の盆栽まがいを三鉢育てている。
なぜ盆栽風というのかというと、
これは盆栽ですと名乗るのが、少々おこがましいからである。
幹は細いし、ほとんど手を加えていない。
盆栽作りには、一定のセオリーがあるが、私の盆栽はそうしていない。
盆栽の鉢を使っているだけなのである。
しかし私は十分満足しているし、楽しい。
盆栽と書は、美の評価点がよく似ている。
どちらも造形の感性とセンスが問われる。
素人が、白い半紙に筆で文字を書けば、一応これは書である。
ただしなんの感動もないし、魅力もない。
しかし書家の書いた文字には、引きつけられるものがある。
筆の運び、ゆらぎ、かすれ、墨の濃淡、余白の取り方・・・
盆栽も同様である。
盆栽の評価ポイントはいくつかあるが、
まずは、芸もなくまっすぐ伸びた幹は歓迎されない。
趣ふかく、くねくね曲がっているものが珍重される。
このように曲げることを「曲をつける」といっている。
次に先端部の細枝の、節間が間延びして長いものは嫌われ、
こまかく密に生えそろえるようにする。
また枝は、「針金かけ」といって枝にぐるぐる針金をかけて、
下方に曲げ、おもむきをつける。
幹も同様に「針金かけ」で「曲をつける」。
これらは盆栽作りの基本である。
私の育てている三鉢は、もみじ二鉢とハゼ一鉢である。
ハゼが一番古く、10年近く前、近所のスーパーの店頭で買った。
小さな丸い鉢にこんもりと林のように茂っていた。
10数本をまとめて植えた、いわゆる寄せ植えで、かわいらしく、
思わず買ってしまった。
500円でおつりがくる値段だったように思う。
高さ15cmほどだったのが、今では30cmくらいある。
あるとき猫に葉をかじられて、虎刈り頭のようになってしまった。
以後、部屋に猫を入れないようにした。
もみじ二鉢は、近所の公園産である。
一鉢は、大きなもみじの木の根元に生えていた、小さな木3本を掘り出してきたものである。
もう一鉢は、池のまわりの、もみじの木の種から作った寄せ植えである。
どちらも、もう7~8年はたっている。
掘り出してきた3本の木も、寄せ植えにして、一番太い木に、初めて針金かけをしてみた。
このとき,針金を外すタイミングが遅すぎて、幹に傷をつけてしまった。
植物はすべて、太陽光が必要だが、強い陽光は葉を枯らす。
ある五月、たまたま快晴の日、盆栽を外にだしっぱなしにしていたら、葉がチリチリに焼け、葉先が茶色になり、無残な姿になってしまった。
のちに、五月の陽光は真夏の陽のように強いと知った。
といって、部屋に入れっぱなしだと、葉にカビのような白いものがついてしまったこともあった。
気が抜けないのが水やりで、天気の良い日が続くと、土がからからに乾いていることがある。
水やりは、表面の土の乾き具合と、持った時の重さで判断している。
ミニ盆栽、豆盆栽といって、酒のおちょこのように小さい鉢の盆栽があり、
見た目とても小さく愛らしいのだが、水やりを考えると、ちょっと作れない。
夏場は管理が大変だろうと思う。
私は大病を患い、何回か入院したが、家に残してきた盆栽の水やりが心配だった。
私の部屋の窓際の明るいところに三つ並べ、妻に水やりだけ忘れないようにたのんだ。
盆栽展の動画は、インターネットですばらしい作品を見ることができる。
ただ、床屋へ行ったばかりの髪のように、あまりにも整いすぎているのは、面白味に欠けることがある。
松の古木などで、幹の皮を一部剥いで、中の白い組織を見せる舎利という技法の作品があるが、どれも似たようなワンパターンに見えて、意外と感興をそぐこともある。
一方、海外の盆栽展はおもしろい。
Tシャツに盆栽のシルエットを印刷した会場説明員に、思わず笑みがこぼれるし、「BONSAI」と看板に書いてあるのも感慨深い。
どれも日本の盆栽に引けを取らない立派な作品が並んでいた。
すばらしかったのは、イギリスの盆栽展で、日本の優等生的な画一の盆栽と異なり、意表をついた斬新な造形、大胆なレイアウトの作品等見られたことだ。
日本の、和の感性が国際的に理解され、受け入れられ、愛されているのを感じた。
私の三つの盆栽、あまり手を加えない主義である。
盆栽としてのイメージが薄れ、盆栽まがいになるが、ある程度放任して育てるのもそれなりに自然感がそなわって味がでてくるように思う。
盆栽は植物のペットである。
絶えず気にかけ、水やり、日光浴の世話、葉の状態の観察が必要である。
しかし愛情をそそげば、植物はそれに答えてくれる。
今、春四月、ピンと斜めに生えそろった新緑の若葉が美しい。