[エッセイ] 書道展 ──謎解きパズルの楽しみ
書道展をのぞくのは楽しい。
植物園で、珍しい花を見つけたり、巨大な植物と出会っておどろくのと同様である。
大規模な公募展から、数人のグループ展、そして画廊での個展等、いろいろ公開されている。
自宅にいながらパソコンで、無料で見られるのだからありがたい。
公募展などは作品数が膨大で、ひととおり見るだけで疲れてしまう。
日本にはこんなにたくさんの書家がいるのかと思う。
書は日本の文化として深く広く浸透しているのである。
もちろん書は、漢字、ひらがなを書いているわけだが、その表現が百花繚乱で、見ていて飽きない。
書体もさまざまで、明朝体のフォントのように、まじめで硬い感じの楷書体。
これは誰でも読める。
読めるけれど面白味はない。冗談をいわない秀才のようなタイプ。
ちょっと筆のやわらかな味付けをした行書体。
さらに筆が流れるように丸みを帯びてさらさら書いたような草書体。
草書体になると、けっこう読みずらくなる。
達筆で見た目美しい文字ほど読めない。
ここから先は、学校の書道では習わないような隷書体や篆書体(てんしょたい)がある。
この篆書体になると、古代文字というか原始文字というか、発生直後の初期漢字という感じで、記号のようでもあり、また物の形を連想させたりし、現代の完成された書体にはないおもしろさがある。
さらにこれらに含まれない前衛書体(?)があり、従来の規範から飛び出した自由な造形となっている。
いっぽう漢字ではなくひらがなでは、平安女流作家が書きそうな、超細く、やわらかく、流麗な曲線の作品分野がある。
このあたりはとても美しいが、ほとんど読めない。
先日、書の動画でおもしろいものがあった。
某新聞社の社名を冠した大公募展の作品を見ていくのだが、1作品10秒間隔で移動していく。
各作品に対して、中年の男性が(声だけなので多分中年?)コメントしていく。
本来は作品を読みあげていくのだが、
「あ、これ読めません」
とこたえる。
10秒間で読めない、判読できないのである。
たぶん5分あっても10分あっても読めないだろう。
10秒経過し、次の作品でも、
「あ、これも読めませんね」
となる。
ときたま部分的に読みあげるのだが、
全体が読めるまでに10秒過ぎてしまい、
「あ、やっぱりだめですね」
となる。
こんな調子で、次から次、ほとんどの作品が読めない。
見ている私もほぼ同様である。
80%~90%は読めない。
実際に会場の作品の前に立てば、作品のわきに小さく説明があったりするが、動画として見ている分には、それはわからない。
以前、ある書家が、書の鑑賞法について話していたことがあり、
あまり、読めるかどうかにこだわらないでほしい、といっていた。
筆の勢い、墨の濃淡、余白の美しさが、鑑賞のポイントなのである。
ということは、書をアートとしてながめるわけである。
公募展の審査などでは、審査員が作品を見て、挙手でOKしていくのだが、見て一瞬で手をあげるそうだ。
読んでいないのである。
アートとして、平面の造形表現として、可否を判断しているのである。
そうとわかると気楽になる。
読めないからといって不機嫌になることはないのだ。
白黒の美術品として鑑賞すればよいのである。
抽象絵画は見て楽しめばよい。
しかし、書の場合、パズルと考えれば、より楽しめる。
クロスワードパズルというのがある。
並んだ文字列の中の一部が□で消されており、この隠された文字を探すのが楽しい。
与えられたヒントから推理し、思考をこらして解答をさがす。
書の場合は、読めたらOKとなる。
書では、漢詩や俳句、詩などが題材になることが多い。
たまたま知ったフレーズなどが見つかるとうれしい。
クロスワードパズルと違い、アートの美しさを味わいながらのパズルであるから贅沢なものである。
制作者の書家の方には申し訳ないが、時間をつぶすには高尚な趣味となる。
この楽しみ、発想の転換から生まれた。
お試しいただきたい。
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