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菱田春草と上村松園~春草晩年の未完成画《雨中美人》をめぐって~(1)

はじめに
 明治時代の日本画家・菱田春草(1874-1911)の作品には、《雨中美人》という珍しい未完成画がある。2015年に飯田市美術博物館の調査で発見されたこの作品[註1]は、春草が死の約1年前の1910年8月から9月ごろに構想した[註2]六曲一双の屏風画である。第3回文部省美術展覧会(文展)[註3]出品作の《落葉》が高評価を得た後、第4回文展[註4]に向け、それに並ぶものと意気込んで描こうとした作品[註5]で、傘をさす女性群像がモチーフであった。ここで疑問に感じるのは、重要な展覧会に向けた時期に、近年手がけていなかったそのモチーフをなぜ選択したかである。
 1910年当時、東京画壇で活躍する春草にとって、浅からぬ関わりをもっていた人物が京都画壇にもいたことは、あまり語られることがない。その人物こそ、美人画で活躍する上村松園(1875-1949)である。
 本論では、春草の未完成画《雨中美人》をめぐり、そのモチーフが選ばれた理由の一つは、松園から何らかの影響を受けたからではないかという問題意識のもと、それに結びつくと考えられる松園との接点や松園の作品を考察する。

<註>
[1]《雨中美人》に関しては、2015年の飯田市美術博物館による遺族家資料調査の中で、屏風から剥がしたまくりの未完成画12点が保管されていたことが確認された。これにより、これまで部分的な下絵によって想像するしかなかった作品の全体像をつかむことができるようになった(槇村洋介「スケッチ・下絵からみる菱田春草の人物画ー《賢首菩薩》《雨中美人》を巡って」『創造の源泉-菱田春草のスケッチ』、飯田市美術博物館、2015年、175ページ。槇村洋介「菱田春草《雨中美人》の〈未完成画〉について」『飯田市美術博物館研究紀要』第26号、2016年、7ページ。)。
[2]《雨中美人》の制作のために、春草夫人・菱田千代がモデルを務め、春草がスケッチしていたのが暑い夏の日盛りだったと、春草の長男・菱田春夫が回想している(菱田春夫「父春草の想い出」『ゆうびん』、1951年(下伊那教育会編『菱田春草総合年譜』(下伊那教育会、1974年)、182ページに所収))。また、1910年9月30日付 菱田為吉(春草の長兄)宛の春草書簡では、出品画(《雨中美人》)の失敗について触れており(下伊那教育会編『菱田春草総合年譜』、下伊那教育会、1974年、129ページ)、9月30日までには筆を置いていたことがわかる。さらに、1909年9月から1911年5月までの春草の受注記録である「製作扣帳」によれば、1910年は8月と9月に受注が減少しており、《雨中美人》の執筆に専念していたことに要因があると考えられる(資料「製作扣帳」『創造の源泉-菱田春草のスケッチ』、飯田市美術博物館、2015年、180ページ)。これらを考え合わせると、《雨中美人》の構想や制作に入っていた時期は1910年8月から9月ごろだとみられる。
[3]1909年10月15日から11月24日まで東京の上野公園竹之台陳列館で開催。春草は《落葉》を出品し、二等賞第一席(最高賞)を受けた。現在、《落葉》は永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)で、国の重要文化財。
[4]1910年10月14日から11月23日まで東京の上野公園竹之台陳列館で開催。審査委員を務めた春草は、まず《雨中美人》を描き始めたが途中で中断し、その代わりに《黒き猫》を出品して話題となった。現在、《黒き猫》は永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)で、国の重要文化財。
[5]菱田春夫「父春草の想い出」『ゆうびん』、1951年(下伊那教育会編『菱田春草総合年譜』(下伊那教育会、1974年)、182ページに所収)。近藤啓太郎『菱田春草』、講談社、1984年、168ページ。

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