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本質的な「心理的安全性」とリスク #コミュマネゼミ
「心理的安全性」のイメージ
「心理的安全性」という概念は、質の良いコミュニティを作る上で最重要ともいえるべきファクターになっていると思う。
あなたにとって「心理的安全性」とは何だろうか?
不安が生じない
否定をされない
なんでも言い合える
ありのままを肯定される
こんなイメージを持っているのではないだろうか?
もちろん私もこういったイメージを持っていた。
しかし本質的に捉えると、ただ単に「居心地が良い」とかで簡単に片付けられる話ではない気がしている。
「心理的安全性」の本質
そもそも「心理的安全性」という概念は、組織行動学を研究するエドモンドソンが1999年に提唱した心理学用語である。
「チームの他のメンバーが自分の発言を拒絶したり、罰したりしないと確信できる状態」と定義
これを私なりにもう少し噛み砕いてみると、
「①対人関係のリスクをとれて②考えを率直に発言できる」状態
であると考える。
ここでいう「対人関係のリスク」とは、他者から見える自分のイメージが下がることを想定している。
「こんなこと聞いたらバカらしいって思われてしまうかな…」
「みんなが同調している中で反対したらノリ悪いって思われるかもしれないな…」
「ここでマイナス発言したらネガティブ人間って思われるかもしれないかな…」
あなたはこのようなリスクを持ったことがあるだろうか?
ほとんどの人が首を縦に振っていると私には感じる。
焚き火理論でみる対人関係のリスクを取り払うコミュマネとしての動きとは?
対人関係のリスクを十分に取れるようになった人は、他者から見える自分のイメージが下がることを気にせず、考えを率直に発言できるようになる。
では上記で示した「対人関係のリスク」は果たしてどのようにしたら取れるのだろうか?
言い換えると、どのようにすれば「対人関係のリスク」取れる余裕のある状態を作れるのだろうか?
先日コミュマネ講座で議論メシを主宰している黒田さんの講義で話をしていただいた「コミュニティの焚き火理論」を使って整理してみる。
![](https://assets.st-note.com/img/1696773276256-xuIbCwSq01.png?width=1200)
コミュニティの循環においては
メンバーから種火を採取
焚き火的イベント
交流と新たな種火の発生
という三つのフローが循環されていくものであると定義されている。
このフロー内で「対人関係のリスク」が発生しやすいのは、やはり一番最初のフェーズであると思う。
メンバーから種火を採取する
いわゆるコミュニティづくりの初期段階にあたる時期であり、誰もがよそよそしく様子を疑い、どのラインまではみ出したら良いのか探り合っていると思われる。
ここでコミュマネができることとは、
「コミュマネ自身が対人関係のリスクをとる」
ことだと思う。
「ここまでは大丈夫」だと、自己開示して、その背中をあえて見せることでさせることができれば、後に続くものを大いに安心させることができる。
少し大胆なことをしても、自分のイメージが下がることはない、あるいは重要ではないと気づかせる。
「このままの自分で大丈夫」と自信がつけば、「対人関係のリスク」取れる余裕のある状態を作ることができる。
そうすることで率直に考えが交わせるようになるような相互理解の促しができると考える。
まとめ
「心理的安全性」とは「①対人関係のリスクをとれて②考えを率直に発言できる」状態である。
「心理的安全性」とは結局誰かが「対人関係のリスク」をとって保身を手放さなければ、作ることができない。
「誰もが人によく思われたい」という欲求を持っているのは事実だ。
その欲求を捨ててまで、「対人関係のリスク」をとれば、その先には心が安定・安心する場所があるのだとコミュマネ自らがまずは証明していくこと、これこそが本質的な「心理的安全性」を作ることができるのではないだろうか。
あとは自然と種火が生まれ、その種火の質が良くなっていき、大きな炎となり、自律分散的にコミュニティが成長していくのを変に介在しすぎず、伴走していける、
つまり「ストライカー」→「サポーター」に自然に変わり映っていけるような状態が私にとって理想のコミュマネなのでは?と最近考えている。