3連休に3連発
先週11日に成城大学で映画『プリズン・サークル』の上映会に行ってきた。
この映画が公開された当時、ネット記事で見かけて気にはなっていたものの、自分の生活に変化があって何かと忙しかった時期と重なっていたために見れずじまいだった。
その後、配信などの情報も得られなかったので、いつしか観ることを忘れていた。
この映画に再び興味を持ったきっかけは、昨年『酒がやめられない文学研究者とタバコをやめられない精神科医が本気で語り明かした依存症の話』の刊行イベントで、著者の一人である松本俊彦さんと、『プリズン・サークル』の監督の坂上香さんのトークイベントというものがあったので行ってみたことだった。
『酒がやめられない~』で自助グループというものに興味を持ったが、『プリズン・サークル』はTC(Therapeutic Community=回復共同体)と呼ばれる受刑者同士の対話による更生プログラムが取り上げられた映画であり、自助グループとTCの「自分の事を、似たような体験をした相手に話すことで回復(更生)する」という共通点と、イベントで坂上さんが話された内容が興味深かったので改めて『プリズン・サークル』を観てみたいと思った。
坂上さんのXを見てみると映画の配信などはされていないが、有志による上映会が各地で行われていることを知った。早速、近くで開催されている場所はないかチェックした。
11月末に都内のある大学でも上映会が行われており、そこにはチケット代(とはいっても1000円だった)も払っていたが、他の用事が重なってその時は行けなかった。
今回の上映会は参加費は無料。上映後に少人数ずつのグループミーティングを行い、また、感想や意見などをアンケートするというものだった。
映画は淡々としつつも突き放す感じではなく、緊張感のあるシーンもどこか暖かい眼差しを感じる編集で、被写体を「受刑者」という枠から外して「一人の人間」として映す。
初めはおどけながらも口が重いTC参加者も、回を重ねるうちに段々と子ども時代からの記憶などを辿りながら、今まで自分自身の中で押し殺していた感情を取り戻し色々と話しだす。
TCで語る受刑者たちを見て思ったのは、彼らも最初は「被害者」だったということだ。
子ども時代に親や周りの人間からの暴力によって、尊厳を奪われてきたこと。助けを求めたり、頼れる存在がなかったこと。
親から酷い目に合わされていても、親を恨んでいないこと。(自分はアダルトチルドレン当事者なので、そのとらえ方こそが問題の根っこのような気もするのだが。)
世の中には奪われるやつがいれば、奪うやつもいる。それならば、自分が奪う側になって何が悪いのかという考えに至ったこと。
ありきたりな言葉かもしれないが「犯罪者として生まれてきた子などいない」のだ。
上映後のミーティングでは他の参加者に「普段、自分が思っていることを何
でも自由に話せる場はありますか?」と聞いてみた。
これは去年、坂上さんがトークイベントで「普段、男性がお酒抜きで本音で語り合える場所ってあるの?(ないでしょ?)」ということを話されていて、自分の中でも思い当たるところがあったからだ。
グループは男性は自分以外には1人、女性は2人だったが、普段そういう場はないという。
どんな人でもそういう場は必要だという話になったところで終了時間になり、まだ語り合いたい人のために下の階のカフェテリアを借りてあるというので移動して、他の参加者の人たちとも話をした。
話していると、色々なバックグラウンドを持っている人が来ていることが
分かったが、社会問題に対して当事者ではなくとも関心を持って他人事とは思えないというのが共通している感覚のようだった。
普段、なかなか話し合うことのない話題を話し込めて、カフェテリアでの2次会終了後は清々しい感じだった。
この後は中延にある隣町珈琲へ向かい、横道誠さんとだいまりこさんの『「対話について対話する」第4回』に参加した。
奇しくも当事者グループによる「対話」に関するイベントに続けて参加することになった。
会場に着いて、イベント開始前にトイレに行こうとしたのだが、そのとき丁度スタッフルームから出てきた、だいさんに気づいてもらい挨拶をする。
隣町珈琲は地下にあるお店だが、広くて明るい雰囲気の内装のせいか独特の解放感があり、落ち着いて居られるので開始までゆっくりと待つ。
今回のテーマは『当事者研究の「ホワイトボードに板書」で課題を人と切り離す』。
これはメインの発言者が自身が困っていることを語り、それを書記係(今回は司会の役割も兼ねる)がホワイトボードに要点を書き出し、参加者全員で問題を客観的に把握し解決のための対話をするというものだ。
前回参加したときは、登壇者のお2人の話された内容に特に疑問など浮かばなかったので質問しなかったのだが、今回は当事者研究の場の「対話」をするようなシチュエーションを再現されていたので、自分も頭に浮かんだ素朴な疑問や意見を発言してみた。
メインの発言者(今回は登壇者のお2人)が他の参加者からの質問や意見に対して答えることにより、より細かい話が出てきて発言者の抱えている問題に対する解像度が高まったように思えた。
これによって、発言者が直面している問題に対してどのようなジレンマに苛まれているのか共有できるようになり、問題の解決方法がすぐには見つけられなくとも、「孤立」することは防げるのではないかと思った。
このイベントも2次会が会場近くの料理店で行われ、横道さん、だいさんや他の参加者の方たちともイベントでは出来なかった深い話ができてよかった。
翌、12日は横浜にある、お店のようなもの(店名)で、『だめ連 新年会のようなもの‼‼』に参加してきた。
前日の11日は神長さんのパートナーのいかさんが、立川でパレスチナ連帯アクションと銘打って、スタンディングや本読みデモ、スピーチなど参加者それぞれがやりたい形でやっていたのだが、そちらは 『プリズン・サークル』の上映会が行われていた時間帯と被っていた為に断念。
昨年末の本読みデモも体調が優れず2回連続で行けなくて残念だったので、こちらは張り切って行ってみた。
お店のようなもの(店名)に入ると「ひきこもり名人」こと勝山実さんも来ていて(勝山さんは横浜市民なので、なんとなく来ているのではないかと思っていたが的中した)顔を合わせたと同時に挨拶していただいた。
カウンターにはだめ連の神長さん、いかさんと、現代書館でだめ連と勝山さんの本の担当編集をした原島さんが入って、お店のようなことをしていた。
通常なら7,8人でいっぱいになるであろう店内に、補助的な椅子、スタンディングも入れて既に14、5人ぐらい入っていて、さらに後から来た人は外で飲んでいる。
酒類含む、飲み物やお雑煮、七草がゆ、おでん、厚揚げ、おせちのあまりのかまぼこなど自由なメニューを含みながらも、全体的に新年を思わせる「めでたい」雰囲気のラインナップがキャッシュ・オンで提供される。
自分は、ノンアル・ビールがあったのでそれを頼む。酒を飲まなくなって、家ではノンアル飲料(アルコール飲料に似せたもの)も飲まなくなったが、飲み会のような場ではノンアル・ビールを頼むようになった。
今の自分はアルコールを飲まなくても辛くはないのだが、場の雰囲気を作ることには参加したいのでノンアル・ビールにする。
酒をやめる以前の自分なら酒を飲むことによって、少しずつ心と身体をゆるめて(それでも酒飲み仲間からは飲んでもあまり変わらないと言われるぐらいには、どこか緊張感が残っていた)、半ば「酒のせい」ということにして普段、話し難いと思うことを語ったりしていた。
今は、自分が読んで共感した本に関連するイベントなど、共通の価値観や問題意識がある人としかそういう場を共有していないので、特にストレスなくほぼ自然体で自分の思っていることを話せている。ここまで長かった。
食べ物メニューにあった、厚揚げをカウンタ―に居る原島さんに頼む。「はい、厚揚げですね!」と返事があったもののなんか様子がおかしい。
「あれ?厚揚げは?」「厚揚げ無いよ?」というやりとりがあった後、神長さんが「あっ、バッグの中だ!」と言う。
厚揚げは自分が座っていた席の足元に置かれていたリュックの中に入っていた。ちなみにこの時点でイベント自体は開始されて2時間経っている。
「はい、厚揚げ!」と言って神長さんが出してくれた一皿は、厚揚げ一枚を8等分くらいに切り、上から醤油をかけたシンプルなものだった。
早速、一切れ口に運ぶ。「冷たい。」それが第一感想だった。ある意味、安心した。ここまで冷えているなら(中略)心配はない。
ただ、自分がイメージしていた「厚揚げ」とは違った。表面を炙るなり、フライパンで焼くなりして温かいものが来ると思っていたのだ。
油抜きがわりに流水で洗ったことを窺わせる水気と、芯まで冷え冷えの厚揚げは、外で飲んでる人たちとのやり取りのために、ほぼ開けっ放しの入り口からの冷気と相まってなかなか箸が進まない。
しかし、これが「だめ連流の厚揚げ」なのだと思い、ゆっくりといただくことにした。
そこに、後から来た客が厚揚げを頼んだ。「はい、厚揚げ!」在り処が分かっている分、先ほどより断然スピーディーに提供される厚揚げ。
自分の後方の席に運ばれた厚揚げは、しばらくすると「これ、チンとかできます?」という声とともにカウンターに戻ってきた。
「あ、温めますか?」と神長さん。早速、奥の電子レンジで温め始める。オプションあったのか。
後から来た客にほかほかの厚揚げが提供される。すかさず自分の食べかけの皿を持ち上げ「これも温めてもらっていいですか?」と聞くと「あ、これも温める?」とすんなり神長さんはレンチンしてくれた。
温かい厚揚げは食べやすかった。水っぽく冷たい厚揚げを、これが「だめ連流」などと粋がっていた自分は愚かだったのだ。自分の求めているものは声を挙げなければ手に入らない。
そんなこんなでしばらくすると、いかさんと立川での本読みデモについての話から、いつの間にか自分の身の上話に。
この場で結論が出るわけでもない話題に付き合ってもらっているうちに、20代前半にほぼ毎週末入り浸っていたバーのマスターとのやり取りを思い出した。
久しぶりに味わう妙に懐かしい感覚に「こういう時間を過ごせる場所って最近無かったなぁ。」とふと思う。
その後も次の日が成人式だという大学生と、神長さんの成人式の思い出話などを聞いたりしていたが、気が付くと結構いい時間になっていた。
丁度、帰ろうとしていた勝山さんと向かう駅が一緒だということを知り、神長さんたちに挨拶をして一緒に店を出た。
勝山さんが2月にお店のようなものでイベントをやるというので、自分も参加すると伝え「今年もよろしくお願いします」と改めて挨拶をしてホームで勝山さんと別れた。
いろいろと楽しく「濃い」イベントだった。
2日間3か所のイベントに参加してみて思ったのは、「自己責任論」などの冷たい「時流」に流されない、流されたくない人たちがあちこちに結構いること。
そういう人たちと対話や交流をするというのは、自分が人間らしく生きていくことで「必要なこと」ではないかということだった。
「時流」というものは自然発生的に見えても、結局は「より大きなもの」の都合が良いように作られていくものだと思う。
自分はそういうものから可能な限り「自由」を求めていて、「より大きなもの」から影響されずに自分らしく生きていくという意味で「自立」することが大切なのだと思ってきた。
しかし去年、勝山実さんの『自立からの卒業』を読んで、関連イベントでオルタナティブな生き方を模索、実践している人たちと交流してみて、自分の中で「自立」というものへの信頼感とでもいうべきものが揺らいでいる。
同時に「ゆるやかな連帯」とでもいうようなものの重要性が身に染みて感じられるようになっている。
自由のために「自立」を目指していたのが、いつの間にか「孤立」に向かって(あるいは向かわされて)いかないように「ゆるやかな連帯」を意識して、今年は動いていこうかなと思う。