「いきいき」したゾンビになる 『「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから』
この本はいわゆる一般的な「思想書」ではない。また、「こうやったら、おりられる」というようなハウツー本の類でもないということは、著者の飯田 朔さん自身がトークイベントなどでも折に触れて繰り返し強調されている。
それでは、この本は何についての本なのか?
「なんでもない」人とは具体的にどういう人だろうか?
「なんでもない」人とは第三者から論評を求められる職業に就いていたり、肩書きや立場があったりというわけではないということでとりあえず良さそうだ。
「いやあ、何もしてないよ」とは人を食ったような答えだが、著者はふざけているわけではない。
「いやあ、何もしてないよ」という一見軽く感じられる受け答えの裏で、著者は自身の中にある答えと、世間的に考えられる答えとの距離を慮っていたのだ。
そして、著者は世間との間に感じる「ずれ」から、ある考えへとたどり着く。
世間と共有するには中途半端で、あまりに些細で、極めて個人的なこと。
しかし、極めて些細で個人的なことであるが故に、その個人にとっては大事なものがあるのではないか。
と、ここでミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出した。
『モモ』では時間どろぼうにそそのかされた人たちが一秒でも時間を無駄にしないようにと気にして行動するうちに、お金や名声は手にするものの、冷たく無味乾燥な感覚に毒されていく様子が描かれていくが、今現在の社会の様子はなんか嫌なほどに似た状況になっているのではないか?
そんな状況に飲み込まれたくないと感じている人も少なくはないと思う。(自分もその中の一人だ。)そんなときに「なんでもない」人、という極めて個人的な立ち位置から物事を考えるというのはシンプルかつ、とても有効であるように思う。
この本では2000年代前後から事あるごとに用いられ、ビジネスから個人の生き方に関することまで波及したと思われる、ある二つの「言葉」に対しての著者の考えが述べられている。ともに日本の社会の息苦しさを象徴するような言葉だ。
一つ目は「サヴァイブ」(「生き残る」)。
やはり、同じようにもてはやされるようになった自己責任論に対しても、不利な立場にある人までも「競争で負けて生き残れないのは自己責任」という考えを内面化してしまっているが故に、自らそのアンフェアな「しくみ」を補強してしまうと指摘する。
二つ目の言葉は「何者か」。
社会の競争の中の勝者、成功者など「肩書き」のある有名人に対する批判や疑問提起は避けるべきという「信仰」に近い考えが、自己責任論に付随するかのように広まり、結果として権威や地位に従う風潮を強めるという問題があるのではないかと著者は言う。
「何者か」への現代日本人の渇望については本の後半、全体の約半分を占める「朝井リョウ論」ともいえる「第2部 そう簡単におりられるのか?」で詳しく書かれている。 また、朝井リョウの作品の批評を通して、「おりる」ことを考えるうえで常に付いて回る「おりられなさ」についても考察されている。
ここでの「おりられなさ」とは、「おりる」ことへの障害になるものと、「おりる」ときにも捨てられないもの(=自分自身とは切っても切れないもの)という二つの意味が含まれているワードである。
改めて、著者のいう「おりる」とはなんだろう?
社会の主流と思われる仕事や生き方から離れて暮らす。的な話は結構昔からあると思うが、「おりる」と脱サラとかとの違いはなんだろうか?
自分自身にとって不本意な流れからと、一見違う環境と見えても再び同じ(或いはさらにひどい)問題にぶつかってしまう状況のループの両方から離れられるように考えて行動することが「おりる」ためには必要なのだ。
始めにも触れたがこの本は「こうやったら、おりられる」というような答えが書いてあるわけではないが、今、まさに「おりようとしている」人にとっては、「この道は通ったな」とか「この場所は知らなかったけど見てみよう」とか思える「書きかけの冒険の地図」のようなそんな本である。
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