現実を生き始める

友達はほしいけど、本当に信用できる人以外いらないと思ってきた。

私が欲しいのは、自分のことを一番に考えてくれて親身になってくれて気が合って、一緒にいて楽しい存在。

子ども時代、田舎の少人数のクラスでは、なかなか自分と会う友達を見つけられなくて、それどころか、少ない人数での人間関係をそれなりにやっていくことの方が大事だったんだ。

限られた空間でうまくやっていくという目的を考えずに大人になった。私の中にいつもあるのは、自分を理解してくれる人を求めていることだったから全力で自分らしく振舞って、まわりがついてこれなかろうが嫌な気持ちにさせようが自分を自分として受け止めてもらうことが一番の欲求だった。お母さんに求めるものを身の回りのすべてに、だれかに、なにかに、求めてきたんだと思う。

それに気づいたのは、ここ数年前の話で大人になって自分が子供を産んでからの話。

誰これ構わず、自分の一番の味方でいてくれるような人、自分のことを一番に思ってくれるような人を求めていたら友達関係がうまくいくはずはなく

わたしはそういう存在を求めていたし、そうじゃないならいらないと思ってきた。

自分の欲求を一番満たせる方法を考えたらそれ以外の方法なんかどうでもよかった。それ以外の同級生も、部活の仲間も、先輩も、後輩も、先生も上司も、みんな自分の欲求を満たしてくれるかくれないかで判断していて

そうじゃないなら自分にとってそんなに必要な存在ではないと思ってきた。

それでも、たまに誰かと遊んだりしゃべったりしたいと思うことがある。そういう時、自分にはそういう存在がいないことに気づいてむなしくなる。

そういう欲求を一番満たしてくれるのが彼氏だった。

自分のことを好きで、わがままを聞いてくれてどんな話も聞いてくれてなぐさめてくれて、そばにいてくれて、好きなところに行けて、

そんな存在がいれば他には何もいらないと思ってきた。


わたしはきょうだいがいるけど、きょうだいも自分の欲求を満たしてくれないし、父親はほとんど他人のように思えていたから自分には家族もいないような感覚だった。

今までだれとも本気で向き合ったことがなかったけど、彼氏だけは違った。

誰にも言えないこと、どんなつぶやきも間違った考え方も全部うち開けられる唯一の存在だった。

家族よりも、家族だと思ってきた。

そうやって心の底から信頼できる人が一人でもいることが自分が生きていくための唯一の支えだった。

そんな彼氏と別れてから世界が変わったんだと思う。

わたしはまた、そうやって家族より家族だと思える人を見つけるはずだった。自分が心の底から大切に思えたら相手にとってもそういう存在になれて、そういう関係があればやっていけると思った。

これが依存している関係だということも、自立して自分の力で生きていかないといけないこともわかっていたけど、だれかひとりでも私のことばをすべて受け止めてくれる人がいないとわたしは生きて行けそうになかった。

とにかく、わたしの価値観やことばを理解してくれる人が一人でもいいから、とにかく誰でもいいから、お金を払ってでも親身に聞いてくれる人がいれば、吐き出せる場所があればやっていけるはずだった。

そういう役割を、旦那に求めたらいけないと思っていた。

同じ職場で出会ったときから物事を深く考えない印象や、突き詰めることをしないフラットな考え方は自分になくてうらやましい反面、残念だと思っていた。

自分の一番の欲求である、自分のことを理解してもらうことをあきらめてこの人と一緒にいられるかと自分で考えたとき、「無理かもしれないけど、そうするしかない。自立できるようになったらうまくやっていけるのかもしれない」とその大変さもよく考えずに、付き合うことに踏み切った。

家族より家族だと思っていた彼氏といたときより、楽しいと思えないことも話の中で期待する展開にならないことも、自分の主張がどこか浮いていることも、違和感としてだいたいのことに気づいていたはずだけど、

結婚して長く一緒にいたらそれでもなにかしら理解できるようになったりいい関係にはなれるはず、と楽観的に考えていた。

わたしの欲求はこの人で満たすのではなくて、こどもに託そうと思った。今までできなかったような思いや考えをすべてこどもに話せばいいと思った。

そうして依存することもよくないことだろうと思っているけど、自分を救うために誰か、わたしの支えになってくれる人が必要だった。こどもにその役目になってもらうことは気が引けるけど、他の誰とも上手に人間関係を気づけない、理想の友達がいない自分にとって、誰かにすべてを吐き出す必要があった。

それが、さらけ出すという社会には不適合なかたちであらわれているんだと思う。

だれか、を求めて誰も持ち得ない自分にしかわからない境遇や考えがどこかの誰かひとりにつながるようにと、大勢の前に恥をさらして見せることで救われたいと思っているんだと思う。

だけど、救われるというよりそうしてさらけ出すことでまた自分が孤独だということを世間に広く公表していて、余計に周りを遠ざけている可能性がある。


わたしは、友達に対する人間関係も、家族に対する人間関係も、旦那に対しても理想を当てはめようとするばかりで、

目の前のそのままの人物を見ていないんだと思う。


自分に対しても、理想の自分をあてはめて違うところを見つけてはだめな自分だとなおそうとしてたみたいに

本来の自分を見ないとどんな形でどんな色なのかベースがわからないのに色も形もつけられない。

それが分かったうえで、人間関係を作っていくんだと思う。

必要な人間関係は、自分のことを本当に理解してくれる人だけじゃないんだと思う。

そういう生き方でもいいんだけど、

それ以外をシャットアウトするのはもったいないかなぁと思う。もう少しゆるく生きられると、それなりに楽しいことやそれなりの関係で越えられることも出てくると思う。

中途半端な関係に振り回されたり、嫌われたり、エネルギーを使うのがもったいないし、一番はそういう存在に間違った理解をされたり、自分を出して嫌われるのが怖いってことだと思う。

わたしがさらけ出す意味は、本当の自分を理解してくれる人を探すためでそうじゃない人は近づかないでほしいと思ってる。自己防衛からくるものだ。

だから、自分に自信があってさらけだせるのとは違う。

自信を求められると急に臆病になって弱くなって引っ込み思案になる。だから、まわりはすごい自信家な人がつぶやいていると思うかもしれないけど、本当はすごく弱い自己防衛のためにやっていることだということが理解できないんだと思う。そのギャップを理解して近づいてくる人がいないんだと思う。

わたしは自分に自信がない。

今でも、育てられないなら3人目である自分を生まなきゃよかったのにと思っている。

生んで、育てずにほったらかしにするくらいなら、責任取れないなら産むなよって、思ってる。

そういう思いをする子供を減らしたくて、それでも生きていく望みを捨てないでやっていけるようにわたしは何か自分にできることがしたいと思ってきた。

こういう思いをしてきたからこそわかる気持ちがあるのも事実で、自分にしかできないことはあるんだと思う。

でも、肝心な時に臆病になる。

心の支えを持っていないから、自分を信じるしかないけど、信じられる自分が見つからない。

ずっと、こんな自分じゃだめだって、理想の自分を見てきたから、自分がどういう人間なのかもよく分かってない。

「為せば成る」を間違った風にとらえてると思う。

なんにでもなれると思ってる。無理をしてでも、嫌な思いを我慢してでも、背伸びしてでも、なりたいと思うようにいくらでも自分を変えていけると思っている。化け物みたいに、その場の空気に合わせてどんな人間にもなれると思ってきた。


もしかしたら、本当になろうと思えばなれるのかもしれない。条件がそろえば。それに見合う努力とか、何かがあれば。

でも、大体の場合、手遅れだったり、状況に合わなかったり、能力が足りなかったり、無理なもんは無理だ。

ネガティブにとられるかもしれないけど、そうやってなんでもできるっていう現実逃避に似た無敵思考よりも、自分にできる限られたことを理解して現実を受け止めながら生きていくことの方が大事だと思うようになった。

そもそも、無理をしている時点で、長くは続かない。どこかにがたが来る。適応できれば大丈夫になるのかもしれないけど、無理をして何かをするのは非効率的で、現実的ではないということを自分に叩き込んでおきたい。

「為せば成る」ということばで少しいつもと違った見方をして刺激をうけるのはいいことだと思う。目の前のことだけじゃない世界も必ずある。

だけど、目の前のことじゃないことばかり見てる人には、まず現実を見てから、為せば成るの方法や現実的なアプローチを考える方が大事だと思う。そのうえで、時間や能力、体力やお金、すべてをそこにつぎ込んでそこに焦点を当てていけば全部じゃないけどできることもたくさんあると思う。

全部、できるのかは分からないけど、近づいていくことはできると思う。

なりたいと思った人が全員総理大臣になれるほど、世の中は甘くないことを自分のことをよく知ったうえで理解しておきたい。



いつまでたっても、家族以上に家族だと思った元カレが忘れられないこともいい加減嫌になってきた。

現実から逃れたくて、自分にも心が通じる世界があると思いたくていいところばかり思い出して、悪いとこも思い出すけど反省して、未来にもつながるかもしれないと持っていたけど、

もうすっかり断ち切る時が来たような気がする。

私の現実は、旦那とこどもの三人暮らしで、

旦那は話が通じないこと、理解力が足りないこと、本を読まないしあまり人に興味がないところも嫌なところではあるけど、

わたしがあれこれ考えてどうこうなることではなく、

少なくとも、元カレのことを思い出して現実逃避している時間はまだ心のよりどころな部分はあるけど、現実とは切り離された部分だということを少しずつ理解しつつある。

過去は、過去なんだなぁ。

為せば成る精神で猛アタックして、どうこうしたとしてもどうにもならない可能性の方が高い。

わたしの為せば成るは非現実的、行動力の原動で、理想を追いかけてる時間は現実と向き合っていない自由な世界だったんだなと思う。

25という数字が現実的に、計画的に物事を考えられる数字なら、

わたしに今必要なのはその力だと思う。


現実的でなければ、行動力も想像力も空回りと妄想に終わる。


現実はぼろぼろで、また逃げたくなる。

現実が見れて、それなりに生きていられれば、逃げたくなることはないんだと思う。


お母さんが死んだとき、お母さんがいなかったら自分はだめだと思った。甘える人がいないこと、お母さんなしで生きていくこと、自分で生きていくことはできないと思った。だれか代わりが必要だと思った。

それから、自分が自分に厳しく、まわりから浮かないようにしないといけないと思った。



お母さんがいなくても、大丈夫だったんだと思う。

最初から、まわりにいてくれる人といろんな話をして、いい関係を作れたら。

「お母さんじゃなきゃ」と、まわりを受け入れなかったのは子供として当たり前の純粋な反応だったかもしれない。

お母さんを忘れることが怖かったし、いなくていいはずがなかった。そんな寂しいこと、あっていいはずがなかった。

お母さんを忘れることも、いないのが当たり前になることも、そのあとの生活がうまくいっていいはずがなかった。お母さんをかわいそうだと思った。そうなったらいけないと思った。


いなくていいわけがない。

いてくれたら、もっとよかったに違いない。


でも、いないなりに、うまくやることはできる。

いるに越したことはないけど、現実をみてやっていくしかない。

今あるものを大事にして、理想をあきらめて現実を見る。

現実を見たうえで、理想やあこがれを、理想や憧れとして、もう一回探してみたい。

お母さんの死を乗り越えるっていうのは、いない現実を受け止めて自分の力でその現実を生きはじめることだったのかもしれない。


#死をのりこえる

#現実を受け止める #こじらせた人生のスタート地点


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