子育てに対する思い

自分が育った中での経験から、子供を育てるというのは

ただ、からだが大きくなったり、成長して、成人と言われる年齢まで保護者としての務めを果たすことだけではないと思っています。

保護者としての務めというのも、食事を与えたり身の回りのことをしたり、送り迎えなど保護者としてするべきことをすることです。

それだけでは、大人になって社会に出たときにやっていけないことがあると思うからです。目に見えてわかる部分だけでなく、心や精神的な部分も成長するように関わることが必要だと思います。

子育ては、心とからだをバランスよく育てる事だと思っています。

成長して、ひとりでやっていけるようになるまで保護者として責任を持つべきなのではないかとも思います。

よく言われるように、自立することが子育ての役割で、そこまでを親の責任として考えていないと、無責任な親がかわいそうなこどもを育てるからです。

親がいつまでもこどもでいること、親として何をしないといけないか、人を育てるってどういうことか分からないまま接していくと、負の連鎖が繰り返されていく可能性があるからです。


前回の内容で書きましたが、私は大人になって社会でやっていく準備や足場を持たないまま社会に出てしまった人の一人です。生きづらさを感じながら社会が何かもわからずに、自分の欲求や未熟さをなんとかするために必死でしたが、そんな自分ではうまく溶け込めず何度も壁に当たりました。育ってきた環境のせいにしていた時期もありましたが、自分の中に原因を探し、治そうと努力して、ふつうの人と同じようにやっていこうと思っても、つらいばかりでした。人と比べることでしか、自分を確認できず、居場所がみつからず、不安や孤独といつもたたかっていました。そして自分の未熟さや、社会でうまくやっていけない理由が自分の能力や知識や常識、考え方や、心の持ちようだけではどうすることもできないところにいたりました。愛着の問題にたどり着いたとき、自分が成長する過程で得たもの、得られなかったものの大きさや、全然平等ではない世の中での生き方を見直すようになりました。

同時に、自分の子供にはたくさん愛情を与えたい、自分と同じような苦労をしなくていいように、社会でやっていけるように育てたい、こんな自分だからこそ子どもの心に寄り添った子育てができるのではないかと思いました。

2017年出産し、自分が母親になったときにようやく子育ての大変さを知りました。

こどもに対する愛情がないわけではない、追い詰められていく子育ての逃げ場のなさや、やり切れない思い、一人では背負いきない責任や、うまくいかない苛立ちで自分を見失っていく現実があると感じました。

旦那とは何度も話し合い、子供の成長を経て、子育ての負担が軽くなっていきました。

「子育てがしたい」という思いが強かった分、現状をよくすることに全力をかけ、子育てがはじまって早々に、一人で子育てができないと感じたので、周りの人にたくさん助けてもらったおかげで大変な時期をやり過ごせました。孤独や大変さを感じながらも、それを和らげるためにまわりが働きかけてくれた気がします。

わたしは、今、子育てがお母さん1人の負担になっていることを問題視しています。その負担が大きすぎると、子供が育っていく中で少なからず影響を与えてしまうのではないかと心配しています。

男の人が外で働いて、女の人が家を守ることが主流とされていた時代がありました。現在も役割分担としてそういう形で家庭を守っている家もあると思います。男の人が外で働いて、女の人が家事をして、子育ても女の人がすべてやるというのは合理的なように見えて、実は子育ての本当の役割を無視しているのではないかと思います。

本当の役割とは、子供が育つために必要な食事や身の回りのこと、保護者としての務めだけでなく、心の成長や精神的な部分にもつながる関わりのことです。

お母さん1人の関わりで子供の成長に不足しているとは思いませんが、お母さんの負担が大きいからです。

さらに核家族が増え、共働きの家庭も増えた中で、お母さんの負担はさらに大きくなっています。

お父さんの育児参加も叫ばれています。核家族はとにかく、手が足りないというのが自分が一番感じたことでした。

そんな中で子供のとのかかわりは時間より質を大切にしようという動きがあります。

質の高いいい時間を過ごそうと思うと、心の余裕や精神的な強さが必要になってくると思います。

精神的な強さというのは、特別な強靭な強さとかではなく、何を言われても落ち込まないとか、困難な場面でも笑っていられるとか、そこまでのものでなくても、日々こどもに安心感を与えられて、日常生活をそれとなく過ごしていけるというものです。

なぜ、子供とのかかわりの中で心の余裕や、精神的な強さが必要かというと、不調な時期が続いたり、かかわり方にむらができると、子供が不安になり安全基地としての役割がゆらぎ、愛着に影響が出てくるからです。小さな不調や、かかわり方の違いに多少のむらはあると思います。それが子供にとって理不尽で、理解を超えるようになるとこころに影響が出てくるのだと思います。

お母さんだけの話ではありません。不機嫌な親に気を遣うようになったり、笑わせてあげてみたり、心配ばかりするようになったりするのも、こどもなりに適応していることが考えられます。そこから、子供自身の周りとのかかわり方にも影響していき、自分を守る行動が増えたり、攻撃するようになったり、取り入ろうとするようになったり、拒絶するようになったりします。

こうした親や保育者とのかかわりの中で身についたかかわり方が愛着行動と言われ、成長して大人になってからも人間関係を築くうえでベースとして残っていきます。

子育てには適している環境があると思います。適している人間性もあると思います。子供が安心して生活できる環境で、子供の世話を愛情もってできることと、世話をする人自身が安定していることだと思います。

ですが現実には、子供が安心して生活するどころか親自身の負担が大きく、子育てがどういうものかより、日々の生活を目まぐるしく送ることで精一杯の家庭も多いです。

こどもが親など保護者とよい関わりを持ちながら、負担を軽減できるようなサポートや協力が身近にあることが子育てに必要な環境ではないかと思っています。

子育てに適している人間性があると、書きましたが、向き不向きは誰にでもあって、自分が向いていないと思う部分があったとしても子育てをしたらいけないわけではないです。

むしろ、子育てが得意な方は、それは一種の才能であり、足が速いとか、裁縫が得意とか、そういうもので、お母さん1人がなんとかしようとするのではなく、まわりの人と苦手な部分を補い合いながら子供とのかかわりを持っていけたら、子育てはずっと楽になるのではないかと思います。

まずは、お父さんの育児参加が必要だと思います。家庭によっていろいろな形があるので、必ずしもおお父さんがお母さんのような働きをする必要はないとは思いますが、お父さんがこどもとかかわりを持つことや子供との関係性を築くことなどが子育ての役割を果たすことにつながると思います。

またお父さんが育児に参加していない場合、お母さん1人が子育てをする大変さや難しさを理解して、周りの助けやサポートを充実させる必要があると思います。


子育てに対する思いは人それぞれで、熱いものなんかなくてもこどもは立派に育っていくのかもしれません。

日々の生活を大事にすること、別に大事にしなくてもそれなりにやってればそれなりに子供は育つと、楽に子育てをすることの方が大切だという方もいるかもしれません。

向き不向きなんて言ったけど、いろんな子供がいていろんな人間がいるから、どんな風に育とうとどんな人生を送ろうと本人が良ければどうでもいいのかもしれないです。

自分の親を無責任だと感じている私は、自分は不幸だったと思い、父親の愛情を愛情とも言いたくないような複雑な気持ちを持っています。どんな状況でも幸せを感じながら生きる事が出来たら、卑屈になることなくもっと早く自分自身の問題として向き合えていたら、など考えだすときりがないのですが色んな細かい感情をひっくるめて、あの時はそうなるべくしてなったんだ、自分はあぁするしかなかったんだと思っています。

自分が今子育てをしているなかで、こどもが安心して100%の愛情を感じながらすこやかに成長しているかというときっとそうでもないんだと思います。こどもを大事にしたい思いや、子育ての役割を強く感じる分厳しくしてしまったり、自分にとって重荷になっていると感じることがあります。

いい塩梅が難しく、いつもいいようにはできないけど、いい時も悪い時も含めて、やれるようにやっていこう、というのが子育てに対する思いの少し力が抜けた今思うことです。

あいかわらず、子育てで苦しむ人の力になりたいと思う反面、この子育てへの思いが強すぎることで、疎まれてしまう気がします。

子育てが大変なのは仕方ない、全部出来ないのは仕方ない、だけどこどものこころが後回しにならなくていい方法があるのではないかと思います。

お母さんが悪いわけじゃなくて、たくさんの人が子育てに関わって、心も体もいい感じに成長していけるような世の中になったらいいなと思います。


この思いがどこかで形になったり、なにかにつながったらいい思いますが、わたしも成長とともにどこかへ置いて行ったほうがいいのかもしれません。


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