”ちゃんと”していないことが許せない

おおざっぱな性格だし適当だし、いきあたりばったりなところもある。

なのに、人から評価されるような社会的な、人としてどうかを見られる部分で

わたしは”ちゃんと”していないことが許せない。


道徳的に、

人として、

親として、

大人として、

どうあるべきか、

どうだったらそうだと言えるか

常に自分の中にあって高い意識を持ってるんだと思う。

そのことは、一見かっこよい人間であるように思えるけど、

融通の利かない、味方の偏った

ストレスの多い生き方をしているということにもなる。


身だしなみ、生活、仕事、人との関わり

ほとんどすべてにおいて、わたしにはこうでありたい、という願望がある。完璧主義と少し似ているのかもしれない。


自分がちゃんとを心掛けているから、いい加減な人を許せないのかもしれない。

全然違う畑でいい加減なことは自分に何の害もなく、影響もなければゆるーく見守ったり、一緒に笑ったりもできるけど

自分に関わりのあることで、しかもその人のいい加減さを自分がフォローしたり手伝わなければいけなかった時

余裕がある時は頼まれてもいないことでもやってあげるけど、

余裕がなくなったとたん、なんで「私ばかり」と不満に変わる。

旦那に対してはまさにこれで、

旦那の欠点やルーズなところ、人に無関心で、自分のことしか考えていないところも仕方ない、自分がやってあげればいいと思う時と

全く余裕がないそこまで考えている余裕がなく、体力も精神的にもいっぱいいっぱいの時、旦那のそのルーズさにふりまわされたり、フォローしないといけなかったりすることに、苛立つ。

その存在が自分にとって不利益であるかのような感覚もある。

もっと、自分をフォローしてくれる人がいい、頼りになる人がいい、安心できる人がいい

と思ったとき、真っ先に思い浮かぶのが元カレのことだった。


そういう人と居るのは楽だった。

何もしなくても、言われたことだけしていたり、心配なことを打ち明けるとたちまちいいようにしてくれる。

わたしは本当に何もしてこなかったんだと思う。


一方で手がかかる、自分の方がやらなければいけないことが多いような人と一緒にいると、役に立っている感覚とか、世話を焼いている感覚が心地よく思えるときもある。

どっちも、ただの塩梅な気もしてくるけど。



わたしのこの”ちゃんと”の意識は

悪いものってだけではない。


”ちゃんと”学校を卒業して、進学して、それなりに勉強をして

”ちゃんと”就職して、仕事して、社会の役に立つという意識のおかげでここまで来た。

経歴がすべてではないけれど、大事な選択を迫られる場面で、

この無意識にも近いような”ちゃんと”しないといけないという思いから大きな道を踏み外すことなく、あとから取り戻そうと思ったときに大きな後悔をすることなくここまでこれたのは、良かったと思う。

そうじゃなかった人に対して、憐れんでいるわけではないが自分の選択やその感覚は必ずしも、邪魔なものというわけではなくて

生かしようによってはいいものとして持ち続けていけると思う。


一方で、”ちゃんと”が偏っていて、意識を高く持ちすぎることで自分を苦しめている場面や、まわりとの調和が保てなくなる時、

いい加減さや、程よさが求められるような場面で適応できず、

浮いたり、辞めてしまうことがある。


仕事に関してはまさにこれで、

常に全力や本気を求められていないような場面で、程よい加減で日々をこなすということの方が重要であるような時に、わたしはまわりとずれが生じて、人間関係の亀裂になったり、

そもそも日々の仕事にむらが出て続けていけなくなってしまうことが何回もあった。

若さからくる未熟さとか、

経験の浅さだけでなく、

その時の環境や、背景も色々あってそうなったけれど

結果、辞めることになったことに対しても、

社会人としての”ちゃんと”仕事をする、続けていく、ことができない自分のことがずっと許せないできた。


"ちゃんと”することは気持ちいい。

自己肯定感が得られる。自尊心が保たれる。

まわりから変な目で見られることより、尊敬や安心、信頼を得やすい。


”ちゃんと”していないと、不安を与えたり、不信感を持たれることがある。

ひとつのことができたとしても、他のことは大丈夫かと心配をされたりもする。余計な口出しをされたり、手を加えられたりする。

わたしにとってはそのことのほうがよっぽどストレスだ。

”ちゃんと”してない人を信頼するのは難しい。

必ずしも、他のことも同じではないにしても、決めつけずに、信頼するのは難しい。


”ちゃんと”には美学があると思う。



わたしはそれを磨くような生き方をしてきたし、

これからもそれを持ち続けていきたい思う。


だけど、それにとらわれすぎていたり、

人に強要してしまったり、

人を見る目に間違いが生じるような

関係にひびが入るようなことがあったらよくないと思う。


私自身”ちゃんと”している人が好きだ。

”ちゃんと”してない人を嫌うのは、美学に反するからなのか。

怠惰を許せないのか。


やることをやってダメなら仕方ないと思える。

やることもやらずに、いる人をみるのはイライラする。


でもこれはあくまでも、自分の価値観でしかなく

世の中には、色んな価値観があって、色んな人がいる。



そういう人ともうまくやれたらいいと思う。

自分に無害な範囲で放っておくとか、好きにやらせておくとか、

かまわない、一線を引く、

距離をとる、

大事なことの判断をゆだねるのは、勇気がいるけど

その権利を奪うことはできないと思う。


そういう人はたいてい先のことを考えていないし、

自分にもそういうところはあるけど、

しくみや全体を理解していないからいろいろ言われても分からないことが多い。


じゃあそんな人にどう接するのか。

あからさまにとげのある言い方で、嫌悪を前面に出すとその時点でけんかになる。

自分の考えをのべて、いくつかの可能性と、全体を伝えて相手の考えの予想とその結末を伝えて、

判断をゆだねる。


おおむね、こっちがそうしたいように操作しているようになるし、

こっちの意図や思惑が伝わって決めにくくなるかもしれないけど、

最後の決断を任せる事は、こっちが決めつける事にはならないかもしれない。

苦肉の策かな。


問題を提議する前にケンカになるし、

こっちが冷静に指摘したつもりでも、むこうの気分をさかなでしたりうまく伝わらなくて、毎回ケンカになってきた。


それでも、離婚に至らない、

まだどうやったらうまくいくのかを考えてる私たちは

この関係をうまくやっていきたいと思いあってる。


わたしはケンカのたびにこの関係の限界を感じるし、元カレを思い出して現実逃避をするから

全然いい関係とは言えないし、

この関係をあきらめないというのが決していいことばかりではないのもわかってる。


そのたびに子供に不安な思いをさせて、

自分も精神的に追い詰められて、不眠が続く。

仕事にも影響が出るし、からだにもよくない。


今も頭が痛いし、眼も充血してる。

それでも、こうやって自分の非を探したり、うまくいく方法を考えられるだけ考えておきたいと思う。

これも”ちゃんと”からくる義務感なのか。


わたしが気づいてないような

もっと外側に答えがありそうだけど、今の私には見つけられない。


楽しむ、とか楽観視するとか、

そういうところかもしれないけど、この人とは無理なんだよなぁ


いい加減なくせにねがまじめだから、

融通聞かないのはあっちも同じで、おもしろくない


不特定なまわりの女の人に、好意をばらまくのは上手だけど、

1人の女の子を楽しませたり、喜ばせたり、

相手を観察したり、相手に合わせるのは下手だから

一緒にいて退屈。


それでも一緒にいるとか、なんなのもうこれ、慈善活動?って感じ。

義務感なのか、執着なのか、情なのか。



結婚してなかったら、別れてる。


あの時、結婚してなかったら、わたしはこの人と結婚してない。

あの時決断できない人とは、その先もなかった。

そのことはどうでもよくなってきたんだけど、

どうしようかなぁ。


これが男と女の違いぐらいの話で納められるかなぁ。


だって男の人の中にも、分かる人はいるって、思ってるから

そんなでっかいくくりでおさまらないんだよね。


それもわたしのただの理想で、現実にはこの先出会えないかもしれないと思うとまだ、現状を少しは受け入れる気になるけど、

あきらめたくないんだよね。

そういう関係がこの世にあるってことを。

自分にもそういう人がいるんだってことを。


あきらめないから、旦那との関係もあきらめられないし、

求めるのもやめられない。


まだ、私の中の世界がせまいなぁ


世の中が見えてないのかなぁ。



現実、今の旦那がベストだと思えるような何か。

思おうとしないといけない時点で違う気がするけど。


また繰り返すんだろうなぁ。


ほんと萎える。

この人と居る自分のメリットをあげる。

デメリットが膨らむとやめたくなる。


すっごい打算的で、全然愛とかじゃなくてむしろ遠ざかっていくけど

続けていくためのストレスを和らげるために、

わたしはこの人と一緒にいることで感じる幸せを強制的に膨らませる必要があるのかもしれない。

または、この人と一緒にいるとかいないとかじゃなくて、

自分の生活の中での幸福度を高めることで、ストレスを遠ざけることができるかもしれない。


今一番現実的な方法かな。

お金や生活に対する我慢を緩めようかな。

やっぱり、お金が必要だ。


結論、”ちゃんと”を自分がやめることはしないで、旦那に求めるのはできればやめたいけど、すぐには無理な気がするから

そのことで生じるストレスや不満を別なところにそらせる。現状より幸せに思えることを増やすことで、直接的な問題を考える時間を減らすという方法に変更で。

無理かもしれないけど。

旦那にかまってる暇はない。

ケンカしてる時間がもったいない。と思えるようになったらいいな。

”ちゃんと”はわたしの中の価値観。

人は、人。


本当はそういう感覚の人と一緒にいられる方が居心地がいいけど、それは無理だから

旦那は、違う価値観の人。

そういう”ちゃんと”を考えたことがないのも、考えようとしないのも一緒に生活しているとムカつくこともあるし、信頼できなかったり不満になることもあるけど、

そこまで考えずに結婚してしまったのも事実。


次がもしあるなら、次は、気を付けようっていうことと

今は、とにかくほかのことで幸せになろうということ。

他のことで幸せになれるよ、なれないかもしれないけど。

そのことに対する幸せをどれだけ望んできたかを自分が一番知ってる分ごまかしずらいかもしれないけど、

そのとき感じたイライラも、ストレスも、伝えるところは伝えて、本当は伝えても意味ないかもしれないけど、

伝えようとしてまた落胆するかもしれないけど、

時間がたてば、少しだけやわらぐから。


それでも無理なら、離婚したらいい。

離婚するための準備に切り替えたらいい。


忘れていられるときは、忘れよう。

仕方ない。

解決策をバシッと見つけたいけど、たぶん今の私にはこれが精いっぱい。


次のケンカや問題が、少しでも先になることを願うのみ。

そのときは、うまく伝えられるように考えてみよう。

伝わらないかもしれないけど、

この、伝わらないっていうストレスだけでもなくなるといいんだけどね。難しい。

時間が経てば、向こうもわかるとこはわかるらしいので、

頭の中の構造が違うので、

仕方ない。

それでも、今までのケンカの内容も全く無駄ではなかったことだけ

そんな風に受け入れてあげることもうっとうしく感じるかもしれないけど、

無駄ではないはず。

大丈夫なはず。


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