全然知らない自分がいる
6歳で大阪から今の父の実家に引っ越してきました。
お母さんが死ぬまで、わたしは人見知りが激しくお母さんのスカートの陰に隠れているような子でした。
断片的に覚えているのは幼稚園に通うようになるまで、お母さんと買い物の行きかえりに一緒に歩いたことや、家で一緒にごろごろしていたこと、おなかがすいた夕方にチーズや魚肉ソーセージを食べさせてくれたこと、おやつにクラッカーをくれたときに冗談を言っていたこと、ピアノの教室に行くのを嫌がったわたしに「行かないと今日のおやつはないよ」と言っていたこと、朝仕事に行くお父さんが私とお母さんにキスをしたこと、きむたくがスキだというお母さんに「お父さんのことは好きじゃないの?」と聞くと「お父さんの好きとは違うよ、まだ分からないかな?」と言っていたこと、大阪のおばあちゃんの家に行くときに新幹線にのるホームでたぶん、抱っこされていたこと、たくさん果物の入ったゼリーをよく作ってくれたこと、夜ご飯にお好み焼きをやいてみんなで食べたこと、そのとき少しビールを飲んだお母さんの顔が真っ赤になっていてみんなで笑ったこと、お母さんが夜寝るときに着ていたパジャマがお母さんの手作りだったこと、リカちゃん人形の洋服や、お布団なども手作りだったこと、たまに家でワープロを使って、文字起こしのバイトのようなことをしていたこと、幼稚園のバスが来るまで四葉のクローバーを一緒に探したこと、お姉ちゃんの通う小学校での親子のクッキング教室で食べたホットドックのキャベツがすごくおいしかったこと、ディズニーランドに泊まった時にベッドでぬいぐるみをくれたこと、、
どれも部分的ではあるけど、書き出してみるとこんなに子供の時の幸せな記憶があると思わなかったです。
それから、お母さんが亡くなる前の晩はすごく優しくなったこと、「明日は学校に行かなくていいから、宿題をしなくていいよ、ピアノの練習もしなくていいよ、歯も磨かなくていいよ」たぶん「お風呂も入らなくていいよ」と、いつもはしないといけなかったことを、しなくていいよと言っていました。私たちきょうだいは、なにがなんだかよくわからなかったし戸惑いながらも、その状況を喜んでいました。
わたしはどうしても夜、お風呂に入りてくて、お母さんと入りてたくて、お願いをして一緒に入りました。電気をつけずに入りました。
その晩、私たちが寝た後お母さんはお風呂場で首をつって亡くなりました。お父さんが朝方帰ってきて、お風呂だけ入って出勤しようとしたときに見つけたそうです。
次の朝、お母さんの布団で寝ていたら起こされて、そこにお母さんのすがたはなく、部屋がいつもより明るく感じ、大阪のおばあちゃんが来ていたこと、お姉ちゃんたちが泣いていたこと、人の出入りが多くて騒がしい中でわたしもその事実を聞いて、たぶん泣いたんだと思います。
それからはバタバタとお葬式が済んだり、引っ越しをしたり、いろんなことがあって、今の家のこたつで横になって、誰かがわたしに「保育園に行かない?」と言い、いやだといったけれど、行くことになったのを覚えています。
今更、思い出したところで何が変わるのか分からないけど、思い出すと悲しかったり、自分のことをかわいそうに思うだけだったのが、今はそのときのお母さんの様子や、お父さんのことや、まわりの人のことも冷静に思い出せる気がします。
子どもの時の幸せな記憶も、あったようななかったような他人ごとのような気持で片付けていて、そのことよりもかわいそうになった自分にしか目がいきませんでした。でも、しあわせな時間や今の自分にもつながるできごとが私にも少なからずあることを遠ざけていたかもしれません。自分のことをかわいそうだと思って過去の出来事を振り返るとそこばかりが思い出されてきました。お母さんがいるとき、幸せな家族の時間が流れていたにもかかわらず、どこかつらかった思い出にすりかえて、気づいたら私の中でお父さんはすっかり悪者になっていました。だけど、思い出す中でのお父さんとお母さんのやり取りは、まるで私と旦那のような話をしているようだったので、わたしが思うような悲しい時間ばかりではなかったのではないかと思いました。
わたしは、引っ越してからたぶん自分の中の色々な葛藤の末、今まで引っ込み思案だったのが積極的に輪に入っていくようになりました。どういう経緯であれ引っ越ししてきたことでまわりから注目されることや自分なりに感情を吐き出したり、求めたりする中で、今までの性格と違った振る舞いをするようになったんだと思います。
大きい幼稚園から、人数の少ない田舎の小さな保育園にうつったことで、活発になったと思った人もいたのではないかと思います。
わたしはいつも周りの子にはお母さんがいてうらやましいと思っていました。寂しいと思う気持ちを内に秘めるのではなく、まわりにぶつけて発散していたんだと思います。引っ込み思案だったわたしが、どんどん元気にふるまう様子は、引っ越しして環境が変わった良さだったかもしれないし、もとの自分を見失うきっかけだったかもしれません。
引っ越す前までのわたしはお母さんがいるからいつまででも隠れていられたし、友達がたくさんいなくても、家に帰ってお母さんがいれば、満たされていたんだと思います。だけど、子どもなりにお母さんがいなくなったという理解で、ほかに変わるものを探したり、こっちの世界でうまくやっていかなければという思いからそういう振る舞いになったような気も少しします。
それからわたしはしばらく長い長い間、お母さんの代わりになるような存在を無意識にいつも探していた気がします。わがままを受け止めてほしい、甘えさせてほしい、大事にされたい、という欲求はおそらく、困った行動として表れていたと思います。
保育園に行くようになって、担任の保育園の先生に最初にそういうものを求めたんだと思います。だけど、他の子と一緒、特別にはなれないという現実の悔しさから、甘えたい気持ちに反してその先生のことをすごく嫌いました。それからも、母親を求めるあまり、学校の先生や地域の人や、ちょっと関わりのあった人にさえも距離を近づけられないか、特別なひとになれないかと思ってきました。友達がお母さんの話をすると嫉妬をしたり、意地悪をしたことがありました。気づくと、周りの同級生はわたしのまわりであまりお母さんの話をしないようになっていたんだと思います。
保育園から小学校、中学校とほぼ持ち上がりの学校だったので、わざわざ親や家族の話をしなくても、まわりはなんとなく私の家族のことを知っていました。祖母が以前学校の先生をしていたこともあり、地域の人は何かと声をかけてくれたと思います。
高校になって少し離れたところに行き、寮に入りました。寮に入ると、お弁当の時間に寮生はみんな寮のお弁当を食べるので、今までつらかったお弁当の時間が少しだけ憂鬱じゃなくなりました。家から通ってくる子とは違い、寮に入っている人はみんな家族と離れているので、いちいち家のことを離さずに寮生というくくりでいられることに安心しました。
たまに家族のことを聞かれると、今まで改まって家族構成を話したことがなかったので戸惑いました。最初は、自分は寮生だし同じ中学校からきている子が少ないからばれることはないだろうと、うそをついたりもしました。
お母さんがいるという嘘は新鮮でした。だけど、いくら寮に入っていて、今までと違う地域で新しい人間関係に囲まれても、自分のことをきちんと話さないといけない場面がありました。最初はなれなかったけど、だんだんときちんと話せるようになりました。
わたしはいつも小学校でも、中学校でも、高校でも、進学した先でも、友情はその場限りのとりあえず日々をやり過ごすためのものでした。特別、誰かと仲良くなりたいと思っても、私はいつも母親に求めるように自分のことをより理解してくれる誰かとそうじゃない人に分けて考えていました。母親に求めるような理解をしてくれる友人ができることはなく、相手の気持ちを理解していい友達関係を作るということがどういうことか分からなかったので、自分中心にふるまってしまったり、逆に相手に合わせてばかりいてしまうようになりました。
そうした学校生活の中で、わたしは浅く広くノリだけでつながる人間関係を身につけました。より深いつながりや理解を求めながら、どうしたいいか分からず、またそうした関係を友人ではなく家族に強く求めていました。そうした思いがあっても単身赴任をしている父との距離はうまることがなく、姉とも違った悩みを持ちながら性格の違いという部分で深い共感を得ることはできませんでした。
いつの間にか、幼少期の自分とは大きくかけ離れた自分が出来上がっていました。人見知りで、ひとりで好きなことをしていることが好きな自分から、大騒ぎをしてまわりから浮かないようにしている自分に、目立つことを嫌う反面、注目されることで何かを得たり存在をより表そうとするようになり、人に合わせるのが嫌いで興味がないのに、興味のあるふりをして人の懐に入ろうとしてみたり、流行やおしゃれも流されるのが好きではないはずなのに、より華やかに着飾ろうとしてみたりしました。
まだ自分でも混乱しているのは、本当はおしゃべりなのか、そうじゃないのかという部分で、大勢の前でちやほやされたり注目されるために一生懸命ネタを考えたり、おもしろいことをしようとしていたのは、ただの子供らしさだったのか、キャラクターなのか、たまたま心を許せる人の前だからだったのか、自分で作り上げた自分の存在が大きいのでまだ見失っています。
それが、今の自分としてあっているのであれば過去の自分に戻ろうとしなくていいと思うのですが、今の自分がどうしても無理をしている部分やまわりと自分というキャラクターの認識にずれがあって、どうふるまったらいいのか頭で考えても分からないです。たぶん、旦那が言うように根暗で陰なキャラクターでいる方が楽だけど、明るくて人と笑いあってる自分も好きだったので、多少無理をしていたとしてもそういう自分もいるということを捨てられずにいます。
31歳の誕生日をもうすぐ迎え、こんなにいろんなことをこじらせた人生ではありますが、今までのことも含めて自分としてこれからもやっていくために自分を見つめなおして、手放すことは手放して、楽に、より楽しく、そして本当に大切なものを大切にできる人になりたいと思います。
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