PCR陽性とcovid19罹患と白鴉外部合評会と24分42秒と自作についてと井上光晴とイェリネクとコロナビールで乾杯と
先月26日夕刻にPCR検査陽性。covid19罹患。これにより28日に予定されていた白鴉外部合評会は欠席することに。私の作品分の合評の様子を録音して送ってほしいと依頼していたところ、24分42秒の音声データをいただく。今日までに5回ほど聴取。10代目井上光晴です、ごきげんよう。クローズドの場でのものなので詳細は省くものの、noteで公開されているものについてはご紹介します。コクラン氏によるものです。「現代的な作品」いただきました。
これらの箇所は完全に意図してものでした。twitterにも投稿したように、この「理想形」を思い描いたのはエルフリーデ・イェリネクの創作物によるところです。「複雑に絡み合った地下茎(リゾーム)の向かう場所を──日本の観客に向けて」という短文において、イェリネクはみずからの作品を竹の地下茎になぞらえます。
このあと、イェリネクは「『テクスト平面』という言葉は、ヨーロッパでは、少なくともドイツ語圏では、すでに禁句となりました。それは退屈を意味するからです」と記します。これは私の解釈ですが、「テクスト平面」という枠組みのみをたよりにするテキストからは、そのテキスト以上のものは得られないということだろうと思います。イェリネクの戯曲か小説を1作でも読んだことがあるかたならばピンとくるものがあるかもしれませんが、彼女の文章を字義どおりにだけ読もうとすればかならず挫折します。一見、なんの脈略もない語りが次々と生成されては通り過ぎていく、そんな文章です。
かつて私は「語り」の審級(そのテキスト上における権力の象徴としての「語り」)を規定しない「語り」を目指して、それを実現していると思われるトーマス・ベルンハルト『消去』の文体、語りから、「アゴアク」を書きました。イェリネクはベルンハルトが「語り」のレベルでひとつの規定から逸脱していったのを、テクスト全体のレベルで実現させたということができると思います。
このいわば「逸脱」系と言えるものについては、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』や、もっと遡ればロレンス・スターン『紳士トリストラム・シャンティの生涯と意見』を加えることもできるかもしれません。
もっとも、そんなことをして何になるという意見もあるでしょうし、それについては、「何にもならない」と答えるしかありません。そしてもちろんその意見はとても正しい。日本語の可能性を広げるため、なんていうかっこいい答えを用意することもできるでしょうが、私見ではそれは翻訳者のほうがより実現していると考えます。
つづいてコクラン氏は文体について触れられます。私も文体の話は大好きです。
「存在感を消した透明な語り」ではないというのはその通りだと思います。私の「語り」観については橋本陽介という若い比較文学者の著作の影響が大きいですが、ごく簡単に言うと、彼によれば日本語で書かれた三人称の「語り」はどんなものでも細かく見ていけば「存在感を消した透明な語り」は存在しないということです。泉鏡花も阿部公房も、三人称で叙述していてもどこかで「語られている情景」を「語る」語り手が顔を出す一瞬がある。そしてそれはおそらく日本語の特性が大いに影響しているものと思われます。私はそれならばその位置に立った上での「語り」を追求してみようと考えて実行しています。なので、録音中に私の作品について「落語」や「ラップ」になぞらえた人がそれぞれいましたが、その受け取りかたは作者の思惑をうまくつかめていると言えます。
もっとも、語りについてはもちろんこれからも勉強していくつもりでおりますので、何らかの変遷が起こることもありえます。
以上、長々と語ってしまいましたが、自分の作品についてあらためて考えるいい機会を得られて幸せなことでした。これからも精進していきたいと存じます。
白鴉同人の皆さま、外部合評会にお越しいただいた皆さま、このような場で失礼ですが、ありがとうございました。
8月1日より職場復帰。2日の晩、コロナビール2本で独り快気祝い。栓抜き買った。
さいきん読み終えた本
梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』(平凡社ライブラリー)
『白鴉』34号
さいきん観た映画
『ルックバック』(押山清高)T・ジョイ梅田
さいきん観た舞台
第26回東京03単独公演『腹割って腹立った』梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ