愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」はドイツのオットー・フォン・ビスマルクの格言になります。
私自身は、多くの失敗をし、二度と同じ失敗はしまいと失敗から多くの事を学びました。
そういう意味では愚者なのかも知れません。
ただ、師と呼べる方々からも多く学び、その中で不明な点もあれば、ネットでも調べ、深堀して歴史に直結するような出来事も学んできたので、ただの愚者とも違います。
「経験は時として新しい発想を阻害する」これは私自身の格言です。
一度成功した経験をしてしまうと、次からも同じ方法を取ってしまい、新しい方法を模索しなくなる。
その昔、ピクミンというゲームに夢中になった事が有ります。
ピクミン2が2004年に発売されて、2週間ほどでラスボスを倒しましたが、コンプリート率が98%と全ての宝物を取りつくすことが出来ませんでした。
そんなある日、娘がコンプリート率100%を出していたので、私が解けなかった部分の攻略方法を教えて頂くこととしました。
そこには、私の考えも及ばないような方法で見事にクリアしていることに気が付き、下手に経験を積んでしまうと、新しい発想が生まれにくくなる、そう確信して自身を戒めるためにも、この格言を作った次第です。
歴史から学ぶというのも、単に歴史を理解するだけで終わることなく、その本質を理解して初めて意味が有ります。
そして、学んだだけで実践に落とし込めないのは、博学なだけで、愚者と変わりません。
また、昔通用したことが、今通用するとも限りません。
故 安岡 正篤氏の教えの中に「三識」と言うものが有ります。
「知識」「見識」「胆識(たんしき)」の三つで「三識」と呼ばれています。
世の中には情報が溢れかえっています、特にインターネットの普及により情報は真実も嘘も含めて膨大にあり、全てを把握することは出来ない混沌(カオス)と言っても過言では有りません。
この混沌とした情報の中から、必要な情報だけを整理し、記憶したものが「知識」と言えるでしょう。
「知識」はあくまでも記憶しただけ、工夫や加工が施されていない状態と言えます。
「見識」とは、この「知識」を自分なりに考え加工し自身の考えとなって初めて「見識」となります。
私自身は、「見識」のことを「知恵」とも解釈しています。
「賢者は歴史から学ぶ」は「知識」を付けることではなく、時代に合わせて、自身の考えも含めた「見識」以上にして初めて成り立つとも考えています。
そして「胆識」とは「見識」を実践して初めて「胆識」となる訳ですが、実践するためには「人、物、金」やそれに加えて「天、地、人」なども加わって、現実の問題と直面し、乗り越えるべき行動を起こして初めて「胆識」となります。
世の中の代表には、良き師から「知識」だけを学び、「胆識」でもなく「見識」にも至っていない方を多く見かけます。
表面だけ理解し、経営理念など真似ても、問題を乗り越えて行動に移さないと、単なる「絵に書いた餅」となってしまいます。
故 山本 五十六氏の格言「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ」、まずは上が理解し、実践して初めて、部下は行動に移すことが出来ます。