二十五、二十一(と私の話)
大げさでも何でもなくこのドラマに救われた。2022年になっても終わらないコロナ禍による疲労、反して増え続ける仕事は自分の時間に侵食し、私を無気力にさせた。何に対しても興味は持てないし、楽しみにしていたドラマすらどうでもよくなった。唯一楽しみに見ていたドラマも終わり、とにかく虚しい気持ちを埋めるために見始めたドラマだった。
このドラマは今と過去を行き来する。そして視聴者は主人公であるヒドとイジンが一緒にいない未来を薄々感じながら、二人の出会いから、ずーっと見ていく。二人の間に信頼が芽生えた日、笑いあってただただ楽しかった日、自分の思いに気付いて苦しくなった日、愛を確信した日。現在の二人はたぶん一緒ではないんだろうなぁと思うからこそ、すべての瞬間にほろ苦さ、切なさが付き纏った。まさに私たちが「青春」といわれる日々を思い出すときの感情そのものだった。もう戻りたくても戻れないし、前に進むしかない。それは悲しいようにも思える。ただ、どんなに痛みを伴っても、あの青くて脆かった瞬間は愛おしくて忘れられないし、特別だ。そしてその瞬間があって、私は今生きている。
10話でのヒドの言葉が、このドラマのすべてだと思う。「永遠なんてない。全ては一瞬で終わって消えていくものよ。でもね、それも悪くないわ。」
確かに二人が一緒にいる未来を望んでいた。こんなにつらい世の中なんだから、せめてドラマくらいはとびっきりのハッピーエンドにしてほしい、都合のいい夢をみさせてほしい、と。
でも10話の修学旅行のシーンがあまりにもきらきらして眩しくて、この一瞬の思い出だけでどんな結末でも受け入れられそうな気もした。これは「永遠に続くことなんてない」という事に対する悟りでも諦めでも何でもなく、祈りに似た純粋な気持ちだったと思う。
この物語の結末は断じてバッドエンドではない。誰が何と言おうと、私はヒドとイジンが下したこの決断をバッドエンドなんて呼びたくない。消えたもの、諦めたもの、壊れたもの、崩れたものに価値がない(バッドエンド)のであれば、この世の中は価値のないものだらけだ。形にならなくても、そこに至るまでの過程、努力、喜び、悲しみ含め一瞬一瞬が尊いはず。私たちはそれをもっと知るべきだし、そう思えたら不完全に見える自分の人生だって誇りに思えてくる。
とはいいつつ、この物語を自信満々に「ハッピーエンドです」と言えるまでには少し時間がかかるとおもう。正直、2人の結末を思うと、まだ胸の奥がずきずき痛くて、苦しくてたまらない。2人が愛し合う未来はなかったのか、たらればをずっと考えてしまっている。どんな結末でも受け入れる、なんてただの強がりだったかも知れない。
それでもいつか、この痛みも苦しみも青春を懐古するときの少しのスパイスだと思える日がくればいいな。こんな感情をひっくるめて、ヒド達と青春をもう一度楽しめたらいいな。今はまだ苦しくて難しいけど、この作品はもう一度見たいし、遅かれ早かれその日は必ずやってくると思う。そしてその日はこの物語がハッピーエンドだと胸を張って言える日にもなるはず。
「二十五、二十一」は私の生活に根差してくれた。辛い現実を忘れさせてくれるようなおとぎ話でありながら、私自身の人生に光を当ててくれるような、日々の生活の見え方が変わるような、そんなドラマだった。このドラマを見始めて、とにかく毎日気分がよかった。仕事は忙しいままだし、相変わらずコロナ禍の終わりは見えない。ただ「二十五、二十一」のことを考える時間が楽しくて、現実のつらいことに目を向ける時間を単純に減らしてくれた。そして何より前を向かせてくれた。無気力だった私が自分の人生に目を向けて、すこしずつ前を向いた。今をしっかり生きてみようと思えた。どんな時代でも失ったことに目を向けるのではなく、得ることを考え、まっすぐに突き進むヒド。そんなヒドにイジンが救われ、欲を出したように、私も救われ、欲が出た。このコロナ禍でこの物語に出会えたことには感謝しかない。
この5人と過ごしてきた季節を想って抱く胸の痛みは、このドラマを大事に見守ってきたからこそ抱く感情であり、今はこの胸の痛みすら噛み締めていたいような愛おしい気持ちにもなる。何かで穴埋めするでもなく、なくなるまで大事にしていたい。