4月23日、礼拝メッセージ「埋葬用の布を解いて自由に、行かせなさい」
4月23日の礼拝メッセージは教会員の岩井姉妹がヨハネによる福音書11章25~26節38~44節から「埋葬用の布を解いて自由に、行かせなさい」という宣教タイトルでしてくださいました。
今日は永眠者祈念礼拝でした。
でも、私は経済事情から仕事をせざる得なく、礼拝メッセージは仕事を終えてからオンラインで聞きました。
オンラインという環境があることに感謝。
そして、2年前に亡くなった長男と15年前に亡くなった三女の名前も私が居なくても読み上げてくださったことも感謝です。
岩井姉妹は「人の生き死に」に関しては、私たちの力の限界を超えた事柄であり自分の意志や選択、計算通りとは行きません。
特に愛する者との思いもよらない死別は、悔いの気持ちと相まって深い傷痕となって私たちの胸に疼きます。
死という現実を前にして人間は何も出来ません。
その死と人の間にイエス様が入ってくださり、絶望から救いあげてくださったと岩井姉妹。
ところで2000年前にも今日の私たちと同じように愛する家族を亡くし悲しみに暮れる姉妹がいました。
べタニア村のマルタと香油の女で知られるマリアの姉妹です。
しかしそんな絶望の只中に、イエスご自身が足を踏み入れて下さった事が聖書に記されています。
墓場で群集を前にしてイエスは父なる神に祈り、そして葬られているラザロに向かって「出てきなさい」と大声で叫び起こされました。
すると「死んだ人が出てきた」とある様に誰もが考えもしなかった「しるし」が起こされたのです。
ベタニアは重い皮膚病の人達を隠す村、また貧しい人達が暮らす村だったようです。
そこで暮らす人々、特にマルタとマリアの姉妹、そしてラザロをイエス様は愛しておられました。
そのラザロが死に人々が泣き悲しむ姿を見てイエス様は憤られたと聖霊にあります。
その憤りはどこに向けられていたのでしょうか?
それは死の支配、サタンの力に向けてであり、ラザロは重い皮膚病を煩わい汚れた者として葬られた理不尽さに向けられたものだったと岩井姉妹はおっしゃいます。
聖書には
「人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。
「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。
しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。
あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。
顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。」
— ヨハネによる福音書 11:41-44
と書かれています。
岩井姉妹は、ラザロの復活はイエス様と神様の共同作業だったとおっしゃいます。
ラザロが出てきたではなく、死んだ人が出てきたとあるのは、ラザロの復活はラザロにだけに向けられたものではなく、私たちにも向けられていると。
ラザロの復活、そして、イエス様の十字架による死と3日後の復活でイエス様と神様は死に完全に打ち勝ち、私たちに行いによって義とされる律法から、信じることで義とされる新しい約束で、私たちを律法の重荷から解放してくださいました。
聖書の「ほどいてやって、行かせなさい」という御言葉は律法からの解放を意味していると岩井姉妹はおっしゃいます。
また岩井姉妹はご自身の証から、クリスチャンになってからも心では良いことをしたいと思っていても体はついていかず人を傷つけてしまう、でも、神様はそんな私をありのままに受け入れ良しとしてくださり、日々、新しい命を与えてくださっているともおっしゃてました。
それは私もまったく同じで、自分が撒いた種の刈り取りで、今、大変なとこにいますが、イエス様が日々が新しい命を与えてくださっているので、大変なトンネルは必ず抜け出て光の中にいけると信じています。
メッセージ前に聖歌隊が賛美された
「うるわしの白百合」
みなさまの1週間が守られますように🍀