2月12日、礼拝メッセージ、ルカによる福音書8章16~18節より「ともし火をともして」
今日のメッセージは徳島キリスト教会、協力牧師、杉山修一先生がルカによる福音書8章16~18節より、「ともし火をともして」という宣教タイトルでしてくださいました。
詩篇189章に
「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」
とあります。
この光は律法を表していて、旧約時代、律法はユダヤ人にとって神から与えられた恵みだったと杉山先生。
それがイエス様が現れ、新約の時代には
「わたしは世の光である。
わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
— ヨハネによる福音書 8:12
主イエスは律法を超える光とされましたと杉山先生。
灯しびを灯すときは闇を照らすときであり、見えないものを見るためです。
言い換えれば見えなかったものが、灯火により明らかにされます。
「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。
入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。
だから、どう聞くべきかに注意しなさい。
持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」
— ルカによる福音書 8:16-18
とは、人の目には闇から闇に葬られたとしても、神は全てご存知だということ。
「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。
持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」
— ルカによる福音書 8:18
とは、持っている人というのは、豊かで更に豊かになるとか、持っていない人は貧しく、更に貧しくなるとかという、そんな単純な弱肉強食な話を聖書は語ってるのではなく、
「いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
いかに幸いなことでしょう 主の定めを守り 心を尽くしてそれを尋ね求める人は。」
— 詩編 119:1-2
とあるように、持ってる人とは、主を神を追い求める心を持った人の心で、
自分の弱さ、至らなさを素直に認め、神の助けを求めることが出来る人のことだと杉山先生はおっしゃいます。
へりくだった素直な心に神は憐れみ、慈しみ、出会って下さるのだとか。
新約聖書にも
「求めなさい。
そうすれば、与えられる。
探しなさい。
そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。
そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」
— ルカによる福音書 11:9-10
と主イエスはおっしています。
そして、
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
— マタイによる福音書 5:14-16
とも、おっしゃています。
私も含め、人は弱く、神の御名を汚すことの方がはるかに多いのに、
「あなたがたは世の光である。」とは、何と恐れ多く、破格の許しと憐れみなんでしょう。
でも、そこには神様のお考え、ご計画があったのです。
それは、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」とあるように、言わば見本になりなさいということなのですね。
私は見本となるには、全然及ばず、自信はありませんが、少しずつでも近づけるように、聖霊様に祈っていきたいと思います。
礼拝で歌った賛美歌は
「主と共に歩む」
皆様の1週間が守られますように🍀