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教会の聖書通読、使徒言行録25章から導かれた御言葉(パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張して いるのです。)

教会の聖書通読、使徒言行録25章から導かれた御言葉は

「告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした。
パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張して いるのです。」

(使徒25:18,19)

「そこで、フェストゥスは言った。
「アグリッパ王、ならびに列席の諸君、この男を御覧なさい。
ユダヤ人がこぞってもう生かしておくべきではないと叫び、エル サレムでもこの地でもわたしに訴え出ているのは、この男のことです。
しかし、彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わたしには分かりました。
ところが、この者自身が皇帝陛下に上訴したので、護送する ことに決定しました。
しかし、この者について確実なことは、何も陛下に書き送ることができません。
そこで、諸君の前に、特にアグリッパ王、貴下の前に彼を引き出しました。よく 取り調べてから、何か書き送るようにしたいのです。
囚人を護送するのに、その罪状を示さないのは理に合わないと、わたしには思われるからです。」

(使徒25:24~27)

宗教は人を生かすことは出来ても、死に追いやることは本来、出来ないのではないかと上記の聖書箇所を読んで思いました。
イエス様が十字架で処刑されたときも、裁判では罪は認められなかったけど、群衆の力が死に追いやりました。
それは宗教的な神の視点からではなく、群衆の自分都合の神に対する間違った解釈によるものでした。
歴史上、世界中で繰り返されてきた、いわゆる宗教戦争は決して神様視点ではなく、指導者や群衆の自分都合の身勝手な間違った解釈により起きてきていると思います。
神様や宗教は人を裁くのではなく救うため、死に追いやるためではなく生かすため、争いではなく平和をもたらすためにあるのだと思います。

導かれた御言葉から聞きたい賛美は
「イエスが愛したように」

みなさまの1日が守らますように🍀


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