教会の聖書通読、ローマ信徒への手紙3章から導かれた御言葉(ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。)
教会の聖書通読、ローマ信徒への手紙3章から導かれた御言葉は
今日挙げた聖書箇所を読んで三浦綾子さんの小説「氷点」の陽子さんを思い出しました。
彼女は継母に冷たくされ意地悪されますが、自分は間違ったことをしていないと言う思いが、その意地悪に耐えることが出来ました。
しかし、自分はその継母の愛娘を殺した犯人の娘(本当は違ったのですが)
であることを知り、彼女を支えていたものが崩れ苦しみます。
こういう事は若い方が抱きがちなのかなと、自分が若い頃を振り返っても思いますが、人生経験を重ねる度に、世の中には白と黒だけでない、グレーゾーンの多さを知って許容範囲が広がっていくのですが、それがキリスト教の言う赦しに当たるかは少々疑問があります。
それは許しというよりは、諦めや妥協と感じるからです。
諦めや妥協ではなく、受け入れ許していく(人も自分自身も)には神様、イエス様の憐れみ深い赦し、救いの愛を知り、受け入れ、信じていくことが必要です。
どうか、私が私自身も人も許し愛していけるように、聖霊様によって導き守ってください。
最後の31節は、ADHDの衝動性が強い私は、旧約聖書の箴言が、その衝動性を抑える薬になっていると感じるので、
「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。
決してそうではない。
むしろ、律法を確立するのです。」は良くわかります。
律法がいけないのではなく、そこに人を思う愛があるのかが問われているのだと思います。
律法は人を縛るものではなく、人を罪から守るものだと思います。
導かれた御言葉から聞きたい賛美は
「イエス救いの神」
みなさまの1日が守らますように🍀