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教会の聖書通読、ローマ信徒への手紙3章から導かれた御言葉(ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。)

教会の聖書通読、ローマ信徒への手紙3章から導かれた御言葉は

「決してそうではない。
人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けると き、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」

(ローマ3:4)

「では、どうなのか。
わたしたちには優れた点があるのでしょうか。
全くありません。
既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」

(ローマ3:9)

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。
律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。
そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。
それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるた めです。」

(ローマ3:20~25)

「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。
異邦人の神でもないのですか。
そうです。
異邦人の神でもあります。
実に、神は唯一だからです。
この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。
決してそうではない。
むしろ、律法を確立するのです。」

(ローマ3:28~31)

今日挙げた聖書箇所を読んで三浦綾子さんの小説「氷点」の陽子さんを思い出しました。
彼女は継母に冷たくされ意地悪されますが、自分は間違ったことをしていないと言う思いが、その意地悪に耐えることが出来ました。
しかし、自分はその継母の愛娘を殺した犯人の娘(本当は違ったのですが)
であることを知り、彼女を支えていたものが崩れ苦しみます。
こういう事は若い方が抱きがちなのかなと、自分が若い頃を振り返っても思いますが、人生経験を重ねる度に、世の中には白と黒だけでない、グレーゾーンの多さを知って許容範囲が広がっていくのですが、それがキリスト教の言う赦しに当たるかは少々疑問があります。
それは許しというよりは、諦めや妥協と感じるからです。
諦めや妥協ではなく、受け入れ許していく(人も自分自身も)には神様、イエス様の憐れみ深い赦し、救いの愛を知り、受け入れ、信じていくことが必要です。
どうか、私が私自身も人も許し愛していけるように、聖霊様によって導き守ってください。

最後の31節は、ADHDの衝動性が強い私は、旧約聖書の箴言が、その衝動性を抑える薬になっていると感じるので、
「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。
決してそうではない。
むしろ、律法を確立するのです。」
は良くわかります。
律法がいけないのではなく、そこに人を思う愛があるのかが問われているのだと思います。
律法は人を縛るものではなく、人を罪から守るものだと思います。

導かれた御言葉から聞きたい賛美は
「イエス救いの神」

みなさまの1日が守らますように🍀


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