7月10日の礼拝メッセージの聖書個所「真の羊飼い -羊のために命を捨てる-」
7月10日の礼拝メッセージの聖書個所はヨハネによる福音書 10章11~18節、宣教タイトル「真の羊飼い -羊のために命を捨てる-」でした。
キリスト教では、羊飼いはイエス様、羊は信徒を表しています。
ヨハネによる福音書 10章11~12節では「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。」と書いてあります。
また、「わたしは良い羊飼いである。
わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。
わたしは羊のために命を捨てる」(ルカ10:14,15)
「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。
それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
だれもわたしから命を奪い取ることはできない。
わたしは自分でそれを捨てる。
わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。
これは、わた しが父から受けた掟である。」(ルカ10:17,18)とも書いてあります。
パウロもローマ12:17-21「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。
そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」と言っています。
牧師先生は「善をもって悪に勝て。」
私は今日の聖書個所で、イエス・キリストが示された善き羊飼いの究極の姿とは、まさにこの言葉の通りで、羊を守るために狼と戦うのではなく、むしろ自分の身を差し出すのが良い羊飼いであると言っているように思えるのです。というのは、やはりイエス・キリストは人々を守るために戦う救い主の姿は示されていないからです。
人々はメシアにそのような理想像を求めていました。
しかしイエスさまはそうではありませんでした。
むしろ十字架に架けられる時も抵抗をせず、人々のために自分の命を差し出された救い主であったのです。
イエス・キリストにあっては、羊の敵つまり狼さえ、敵や悪ではなく、迷える子羊の一匹であるのです。
イエスさまはそのような迷える羊に愛を示されるために十字架に架けられたのですと。
このメッセージを聞いて、私はインド独立の父と呼ばれるガンジーが提唱した「非暴力、不服従」を思い浮かべました。
そもそも、ガンジーが新約聖書のこの御言葉を実践したのですが、ガンジーは「私は失望したとき、歴史全体を通していつも真理と愛が勝利をしたことを思い出す。
暴君や殺戮者はそのときには無敵に見えるが、最終的には滅びてしまう。
どんなときも、私はそれを思うのだ」とも、「私には人に命を捧げる覚悟がある。
しかし、人の命を奪う覚悟をさせる大義はどこにもない」と言っています。
これが、良い羊飼いの真理であり、覚悟だと思いました。
そして、目には目的な暴力や戦いでは決して、平和にはならないし、今こそ、ガンジーやイエス様の「非暴力、不服従」が大切であり、世界は「非暴力、不服従」の勇気が必要だし、私もその勇気を持たねばと思いました。
礼拝で歌った新生讃美歌は
「牧主わが主よ」
みなさまの1週間が守られますように🍀