9月24日、礼拝メッセージ「何とか捕らえようと」
昨日の9月24日は私にとっては特別な日で主日礼拝に出れたことが1番の誕生日プレゼントになりました🍀
フィリピの信徒への手紙 3章12~16節から宣教題:「何とか捕らえようと」というメッセージを井形英絵牧師先生がしてくださいました。
聖書箇所の「わたしは、すでにそれを得たというわけではなく…」。「それ」とは「死者の中からの復活(11節)」を指していると思われますと井形先生。
フィリピの信徒への手紙を獄中から書いたパウロは、ここで「完全な者」と考えている人々を念頭に置いて、「何とかして捕えようと努めているのです。
自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。
不思議な表現だと井形先生、ここにパウロのキリストにあって生きる在り方が示されているともおっしゃいます。
完成の時はまだ来ていない、故に自分は競技場を走るように目標を目指している。
けれどもそれは、イエス・キリストの生涯によって、死と復活によって、信仰の希望の内に捕らえて下さっているのだ、と。
「完全な者」は神の「認識」を得たと自認し神秘主義に入っています。
そこでは、この世の只中でキリストの苦しみ(苦しみを負わされる)にあずかりつつ福音に生きることも、終わりの完成を希望するからこそ、神が願う世界に向かって今を生きることも消えてしまいます。
感謝なことに「目標」は示され、キリストによって上へ召して下さる賞は約束されているのです。
ですから安心して、到達させて頂いた今を確認し、ここからまた神に開かれながら進んでいきましょうと井形先生は締めくくられました。
私がイエス様によって示された「目標」に向かって、神様によって開かれた道を神様の御言葉を頼りにイエス様の手を取って共に歩いていけるように聖霊様によって導き、守ってください。
礼拝の中で賛美した新生讃美歌は
「なにゆえましみ神は」
みなさまの1週間が守られますように🍀
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