3月5日礼拝メッセージ「エパフロディトを知っていますか」
今日の礼拝メッセージは関西学院大学人間福祉学部・宗主事の嶺重淑先生がフィリピの信徒への手紙から「エパフロディトを知っていますか」という宣教タイトルでしてくださいました。
この聖書箇所はコリントの教会からパウロに遣わされたエパフロディトが病気のためコリントの教会に帰そうとパウロがコリントの教会宛に書いた手紙です。
エパフロディトは聖書の中にはフィリピ書に名前が二度出てくるだけの無名の人物です。
彼は当時獄中にいたパウロの世話をするためにフィリピの教会から送り出されて来たのですが、派遣先で不運にも瀕死の病にかかってしまったようです。
その後彼は健康を回復してフィリピに帰することになりますが、その際パウロは、彼の働きを高く評価し、最大の賛辞をもって彼を送り帰そうとします。
実際には、エパフロディトは本来の目的を全く果たすことができず、パウロの世話をするどころかかえってパウロの世話になったようですが、そのことで彼は、大きな期待をもって彼を送り出したフィリピの教会の人々から顰蹙を買ってしまったようです。
しかしパウロは、そのような苦しい立場に陥っていた彼の辛い気持ちを汲んで、彼がフィリピ教会の人々から責められることがないように、彼の病の原因はその命懸けの奉仕の結果であったと明言し、フィリピの人々に彼を快く迎え入れるように訴えたのです。
パウロはこの一件が「教会の一致」を損ないかねないと危惧したためにそのように行動したのですが、このような彼の態度は、弱い立場にある人に寄り添うことの大切さを改めて私たちに教えてくれていますと嶺重先生。
私たちは役に立つことを重視過ぎるあまり、役に立ちたくても立つことの出来ない弱い立場の人を軽視し、傷付けてしまってないでしょうか?
役に立つというニュアンスは近年は経済的活動や目の前の見える効果のみに賞賛が集まり、反面、目に見えない数値化されないものは役に立たないと切り捨ててしまいがちです…
教会でも、そのようなことはないでしょうかと嶺重先生は仰っておられました。
パウロはそのことに気付かせるために、この手紙を書いたのではないでしょうかと。
役に立つかどうかより、目の前の弱い立場の人に寄り添えるかどうかをパウロは問うているのではないでしょうか?
主イエス・キリストがそうであったように、私たちも弱い立場の人に寄り添えるように祈っていきましょうと嶺重先生は締めくくられました。
私が通う神戸バプテスト教会では、「違いの中に働くキリストを告白する群れ ~響きあう礼拝とひろば~」を教会のテーマとし、一人ひとりの考えや人格、人生の歴史を大切にしています。
その違いは反発しあうものではなく、多様性を生み、それぞれが出来る時に、出来る奉仕をし、奉仕を強要する雰囲気もなく、程よい距離感で教会員同士が支え合っています。
だから、今の無牧師期間でも不安な雰囲気もなく落ち着いた空気が漂っているのだと思います。
最後に今日のメッセージを聞いて、2年前に悲しい事件で亡くなってしまった重度自閉症の長男のことを思います。
長男は25歳でしたが3歳くらいの知能で、ほとんど喋れませんでした。
社会的には、まったく役に立たないと見なされていたでしょう…。
でも、私はそうは思いません。
長男は手のかかることも多くありましたが、長男の笑顔は多くの人の心を癒し、幸せな気分にすることが出来ていました。
そのことは十分、役に立ってると言えるのではないでしょうか?
明治以前には障害児は福子と大切にされていた時期もあったようです。
長男の笑顔は、本当に福子のような笑顔でした。
礼拝で歌った賛美歌は
「さあ、共に生きよう」
みなさまの1週間が守られますように🍀