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詩編73章から導かれた御言葉 (目に労苦と映ることの意味は 神が導き招かれた祝福、 恵みのためのギフトでありチケット)

自分の聖書通読の続き、詩編73章から導かれた御言葉は

「神はイスラエルに対して心の清い人に対して、恵み深い。
それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ
一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。」

(詩編73:1,2)

「 わたしの目に労苦と映ることの意味を知りたいと思い計り
ついに、わたしは神の聖所を訪れ彼らの行く末を見分けた」

(詩編73:16,17)

「あなたがわたしの右の手を取ってくださるので
常にわたしは御もとにとどまることができる。
あなたは御計らいに従ってわたしを導き
後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。
地上であなたを愛していなければ天で誰がわたしを助けてくれようか。
わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが
神はとこしえにわたしの心の岩、わたしに与えられた分
見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。
御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。
わたしは、神に近くあることを幸いとし主なる神に避けどころを置く。
わたしは御業をことごとく語り伝えよう。」

(詩編73:23,24,25,26,27,28)

私も“わたしの目に労苦と映ることの意味を知りたいと”
ずっと思っていました。

主、イエス様に出会い、受け入れるまでは、
足を滑らせ一歩一歩を踏み誤っていました。
主、イエス様に出会い、受け入れからも、
“あやうく足を滑らせ一歩一歩を踏み誤りそうになっていました。”

聖書通読をきちんとするようになってから、
ふっと、“わたしの目に労苦と映ることの意味”は
主、イエス様に出会い、礼拝に出て、聖書を読み
御言葉を通して神の御声を聞き従うために
神が導き招かれた祝福、恵みのためのギフトなのではと気付かされました。

人は目に見えないものに不安を感じたり、
信じなかったり、目に見えるものが全てと思いがちです。
ですが、恐らく肉体が滅びてから魂が過ごす場所のほうが
遥かに長いのではと思います。
地上で主、イエス様に出会い、受け入れた人は
主の傍で平安に魂は永遠に過ごすことが出来ますが、
地上で主、イエス様に出会っていても
その赦しの愛や招きに気づかなかったり、
拒否した人の魂は主の傍に行けずに
気が遠くなるような時間を苦しみの中で過ごさねばならないでしょう…

でも、主は全ての人を、そんな苦しみから救い御傍に招きたいと、
お一人おひとりに語りかけておられます。

今、苦しみや悲しみの中におられるお方、
その苦しみや悲しみは神様があなを救い御傍に招かれるための
チケットです。

どうか、受け取って、その苦しみ、悲しみを
神様に委ねて神様の話かけておられる御声に気付いて…

導かれた御言葉から聞きたい賛美は
「神のことば」


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