8月14日、礼拝メッセージの聖書箇所はマタイによる福音書 10章34~39節、宣教タイトル「平和と敵対」
8月14日、礼拝メッセージの聖書箇所はマタイによる福音書 10章34~39節、宣教タイトル「平和と敵対」でした。
8月は日本にとって、6日、9日、広島と長崎の原爆記念日、15日は終戦記念日で、世界平和を祈り、考える月と言えます。
その中での、この宣教タイトル。
でも、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。」
(マタイ34,35)は「汝の敵を愛せよ」とおっしゃってるイエス様の御言葉とは真逆的なメッセージで、正直、良くわからない、難解だなと思っていました。
牧師先生は「あなたがたが熱心なのはいいが、それによって傷ついている人はいないだろうか。
あなたがたが中心となっている中で、疎外されている人はいないだろうか。そのような社会とは敵対(抗議を)し、万物の造り主なる神がその多様性を認められ、一つの地球に存在させていることからわかる通り、すべての人と隣人になって生きて生きなさいということなのではないかと思うのです。」と、おしゃっておられました。
また、牧師先生は「人(息子)と父の関係、娘と母の関係、嫁と姑の関係、これはある意味でやはり確執を持つことがある関係性であり、家制度の中で緊張関係になりやすいもの。
家父長制的な当時の家社会の中では、特に個人の個性は、家の力関係に埋没するものであるからです。
そして「こうあるべき」という家の中の独特な文化は人を縛り付けることがあると共に、家の中と家の外の世界を完全に分けてしまう。
それは「○○家の人間」ということであり、さらに言えば「○○民族」ということであり、「○○国民」という属性分けになります。そのような属性は本来人を守るべきものでした。
しかしそのような「属性」が人を区別するということが起きていたのだと思う。
つまり、これは私たちが関係性から「個人としての自立」することを教えているのです。イエスさまがもたらした御言葉の剣によって、家族と敵対させられた私たちはある意味で言えば「信仰的に、自覚的に自立した」ということなのだと思います。」と。
なるはど、マイナスとマイナスはプラスになる的なメッセージだなと思いました。
これは、子供が親から自立しようとするとき、親の価値観や言葉を悪く言うと、親の支配や、子供を親の私物化や親の理想にがんじがらめにしようとしてる親から子供が抵抗しようとするときのに起こる一種のバトル的なものなのかなとも思いました。
最後に牧師先生は「神は全ての人のいのちの充実を願っておられます。
だからイエスさまは社会の中で「平和ならざる状況」に置かれていた罪人たちを救うため、世の常識と敵対し、御言葉の剣を投げ込んだのです。
私たちはまた御言葉から今も問われます。
私たちが立つべき場所はイエスさまの言葉であり、すべての人の罪を許し贖われたイエスさまの十字架、そして復活です。
私たちには希望があります。
何故ならばイエスさまは世に勝っているからです。」と締めくくられました。
私も2年前に私の未熟さや罪により、娘との関係が不和になりましたが、母子家庭で母子ともに依存し健全ではなかった当時の私たちには荒治療ではありましたが、互いに自立し人間的に成長するためには必要なことだったのかもと2年という月日が流れた今、今日のメッセージを聞いて思いました。
この先、私たちの関係がどうなっていくかはわかりませんが、私も、娘たちもクリスチャンですし、私は関係を何とか修復しようと自分の思いで執着に捕らわれるのではなく、全てに勝利された主に委ね祈っていこうと思っています。
礼拝で歌った新生讃美歌は
「われに従えとイエスは招く」
みなさまの1週間が守られますように🍀