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2月20日の礼拝メッセージまとめ(神の平和 ~思い煩いを主に委ねる~)

今日の礼拝メッセージの聖書箇所はフィリピの信徒への手紙
4章2~9節でした。
宣教タイトルは「神の平和 ~思い煩いを主に委ねる~」

この箇所はパウロが会うことの出来ない 
フィリピの信徒へ宛てた手紙です。
フィリピの教会には様々なな人種や立場などの違いを持った
人々が集っていたようです。
多様性を持つ教会は、たとえそれが福音宣教の為であっても、
それぞれの違いのためにトラブルが起きやすいものです。
ただパウロはこのトラブルが起きることがいけないとか
そういうことを言おうとしているわけではないようです。

パウロはフィリピ1:15-18で
「キリストを宣べ伝えるのに、どんな口実であれ、真実であれ、
とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、
わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」

牧師先生はこれは驚くことです。
キリストを宣べ伝える人は立派な人でなければならない。
反対に言うと、そのようには思えない人がしている奉仕を
偽善のように感じたり、
不純な動機で奉仕しようとしているように思える人を
排除しようとしたりしてしまうということが
あるのではないでしょうかとおしゃっていますが、

 正直、私は立派ではないので、
 よくわからないというのが 正直なところです


そして、牧師先生は主を思う熱心な自分の思いが他人を
傷つけることがあったり、愛の交わりである教会が裁きと争いの場に
なってしまったりするということがあるのです。
恐らく、この時フィリピの教会ではそのようなことが
起きていたのだろうと思いますと説明がありました。
しかし、フィリピ1:15-18で妬みや争い、不純な動機からという
言い方をしていますが、それは周りの人からの印象であって
本人の本心とは異なることなのかもしれません。
いくら周りからは競争心のようにしか思えない事であったとしても、
本人はイエスさまのためにしているに違いはないわけです。

それは本人にとってこれは善意の奉仕なのです。
例えば十字架に向かうイエスさまに高価な香油を注いだ
マリアに弟子のユダは怒りました。
しかしイエスさまはその本人の思いをこそ喜ばれたのです。

問題は、自分の目線で相手を見てしまうこと、
その時に生まれる思い違いが実はこのようなトラブルの
原因になってしまっているのではないかと思うのですと牧師先生。

 ここは、なるほどと思いました。
 確かに私たちは人の言動を見るとき
 その人の思いからではなく、噂や評判、
 それに自分の思いもプラスして 見てしまいがちです。

パウロはトラブルの間柄になってしまった人たちに
「同じ思いを抱きなさい。」と言いました。
私は素直にハイと思ったのですが、

パウロはどっちがいいか悪いかということも触れておず、
牧師先生はもし私であれば、どちらが良くて悪いかは
はっきりさせたいと思います。
あるいは基準を示すことはするでしょう。
そうすれば慰めにも悔い改めにもなります。
或いはそうではなくても共感する思いを
伝えてくれるのであれば理解できます。
ですが何の理由もなく上から目線で
「同じ思いを抱きなさい」とパウロはそのように言ったのか疑問ですと…

 う~ん…パウロは上から目線で 言ったんだろうか?     
 私は白黒はきっり付けられて しまったら辛くなってしまって   
 悔い改めの前に 挫折してしまいそうになるかも…。   
 でも、基準を示めされることは 大切と思います。  
 出来れば、白黒はっきりさせずに   
 基準という道標を立てて いただきたいかな。   
 そうすれば悔い改めについて 良く考えることも、   
 相手にとってもどうするのが 良いのか考えたり、   
 祈る気持ちの余裕が出てきます。

牧師先生はこの後に、実はパウロは文面においては彼女たち
(トラブルになっている張本人たち)にわたしは寄り添っているのだ。
だからあなたの気持ちは理解している。
わたしは上から目線で言っているのではなく共にいるのだ。
そしてあなたがたも共にいるのだ。
だから共に同じ思いを持とうと言っているように聞こえるのです。

同じ思いになるとは一致すると言う意味もありますが、
お互いに心にかけるということでもあります。
そう思った時、パウロがその個別のトラブルの解決方法について
触れていない理由も分かるように思います。

それは、二人におきた個別のトラブルが問題なのではなく、
たとえどんな問題が起きたとしても、
「傍らに寄り添い同じ思いになる関係ことが大切だ」
ということではないでしょうかとおしゃっていて、
私はホッと胸をなでおろしました。

 やはり、白黒をはっきり 付けられるより、
 寄り添って、みんなで気持ちを 汲み取りあいながら
 解決していくのが時間は かかるかもしれないけど
 良いのではないかと思います。


続けてパウロはこう言っています。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。
主はすぐ近くにおられます。
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

このことについて牧師先生は広い心という言葉は、
むしろ相手を裁く狭い心ではなく
相手と共に生きていくためのわたしたちには
既にイエスさまによって与えられているのだということです。

パウロはどんなことでも思い煩うのはやめなさいと言います。
もちろん進んで思い煩いたい人なんていません。
やめられるならやめたいと思う。
でもやめようとしたってやめられるものではないのが「思い煩い」です。

しかしイエスさまに結ばれている者たちだからこそ、
わたしたちには思い煩う必要がもはやなくなるのではないかと思うのです。何故ならば私たちの思いは祈りを通して神に打ち明けるものであり、
神がわたしたち一人一人に働きかけるのであるからです。
自分の思いが優先で、自分の思いで人を動かすために
祈ると言うのではありません。
神がわたしたちに寄り添いわたしたちの軛を担い、
共に生きていくものとして招いて下さり、
互いに結ばれているのだという土台に立つことができれば、
わたしたちは確かにパウロの言うように、いついかなるときも、
あらゆる人知を超える神の平和が
わたしたちの心と考えをキリスト・イエスによって、
(これはキリスト・イエスの内に在ることによってという意味ですが)
守られるのではないでしょうか。
これが委ねるということだと思うのです。

人間関係における場合、恐らくその思い煩いは、
わたしたちが求めているものが「自分の関心に基づくもの」であり、
それが人と異なるから出てくるものなのです。
或いは自分のことなんて誰もわかってくれていないという
思いもそうかもしれません。

もしわたしたちがそれを求めているのであれば、
そこには両者の衝突が起き、一致はありませんし平和はありません。

しかしそれが「キリストの関心に基づくもの」、

つまり「神の国と神の義」を求めることであれば、
わたしたちはたとえ思いは異なりやり方は違ったとしても、
「同じ思いを抱く」ことができるようになるのではないかと思うのです。
そしてそれは私たちがそのイエスさまの思いに従っていくときに
同じ思いになっていくことができるのですとおしゃっておられました。

 私は思い煩ってるときは、 なかなか神様に気持ちが
 向けられない時があります。
 そんな時は自分の思いだけで いっぱい、いっぱいで
 人にもなかなか相談できずに 自分の思いだけで
 突っ走ってしまい 多くの失敗をしてきました。
 でも、もう、それでは 本当にダメだとわかっています。
 だから、今はとにかく 毎日の聖書通読、
 主日礼拝で語られる メッセージを通して
 神様を、御言葉を意識することに 努めています。
 そして、祈りで思い煩いから 解放されて、
 主に委ねていけるように 祈っています。

礼拝で賛美した新生讃美歌は
「キリスト教会の主よ」

みなさまの一週間が守らますようにk🍀

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