5/16 雨漏り
生活に支障をきたすレベルではないが、やはり気分の浮き沈みはくる。
今まさにその最中です。病みアピールだと思ってもらって構わない。こうやって発散するしか今のところ方法が分からない。
小難しいかも知れませんが、脳や認知について書きます。
ヒトの脳は外界に対して働きかけるような外向性のモードと、自分の内的感覚(内臓のフィードバックとか記憶とか)に意識を向ける内向性のモードがあると考えられている。
ヒトの認知はこの外向性と内向性の状態をうまいこと行ったり来たりしてはたらく。
認知科学におけるこのモデルはよくシーソーに例えられる。シーソーのギッタンバッコンを調節する機能が何かしらの要因で弱まると、いわゆる精神疾患になるのではないかと言われている。
内向的なモードでは自分の意思とは関係なしに不連続な思考がポンポンと湧いて出てくることがある。これを自動思考(automatic thought)と呼ぶ。
この状態を自覚・認識したことがある人もいるだろう。
自動思考では上述した通り自分の体の感覚だったり、過去の体験だったりが出てくるだけでなく、将来に関する思考も湧いてくる。
僕の中では大抵、ネガティブな体験、記憶をベースに自傷的な思考ばかり湧いてくる。あの時あんなことを言うべきではなかったとか、あの時うまくいかなかったのだから将来同じ状態になればまた失敗するだろうだとか。自分がどうも無力に感じられて体が動かなくなる。自分に価値を感じられなくなって、消えたいとすら思う。
この状態では集中力を要する作業などできない。本も読めないし動画も見ることができない。ゲームだって当然楽しめない。人と関わるのも嫌だ。
僕の頭の中のシーソーは時々故障し、内向性モードから動かなくなり、負の自動思考で自分を傷つけ続ける癖を持っている。
ネガティブな自動思考は、全部ノートに吐き出してみろと、一度だけ受診した精神科の先生に言われたのでそうするようにしている。
だから実際今こうやって自動思考全てを文字として吐き出している。効果があるかはわからないがその場は凌げる。
書き出した思考から自分の不安を咀嚼してみると、具体性に欠いていたり、実際には起こるとは思え無さそうなことを恐れていたりすることに気がつく。
不安の根源は未知から来るのだなと言うことがわかり、一旦は落ち着く。
しかし、何度ここに辿り着いてもまたシーソーが壊れるのでキリがない。
某精神科youtuberは、精神とはこう言うものだと受け入れてしまえと言っていた気がする。つまり、浮き沈みの沈みが来たら「ああ、いつものが来たな」と思うだけに留めよ、それすら受け止めてしまえというわけだ。
これもまたその場しのぎにすぎない。雨漏りの原因を治すのではなく、雨漏りで床が濡れるのを避けるべくバケツを置いておくというような程度の対処でしかない。
理性的にはこの対処法が無意味であることは分かってはいても、そうせざるを得ない。というのも脳ひいては精神というものについて、科学的理解がまだ十分でないから、具体的な対処法がないからである。諦めるしかない。
そういえば脳の深部に電極を刺し電気刺激によってうつ状態を改善するみたいな試みがある。
これもまたその場凌ぎでしかないなと思うし、この技術が実現し、受け入れられた社会はディストピア的で怖いと思う。まあ、真にそれを必要とする人がいるのは理解できるが。
シーソーがぶっ壊れた時に頼れるものがあれば良いなと、幾度も思う。いまのところそんなに頼れるものがない。
収拾がつかなくなってきたし、日付も変わりそうなのでこの辺でやめておく。文章を書き殴ることでシーソーの回復を待つのが目的であったのだから、校正もオチも必要ないっす。
おつかれす。