6/3 意識の拡張としてのSNS
ここ最近はまっているテーマは「個人」や「意識」です。今回もそういった内容になってます。
気が付いたら3000字程書いてしまっていたので、見出しをつけて見た。
イントロ
先日、消さずに残していた地元の友達コミュニティ(10人くらい)のためのXアカウントを一つ消した。
現在バンド活動のために使っているアカウント一つしか持っていないが、半年前は6個とかを同時に動かしていた。我ながら変なことをしていたと思う。
地元のコミュニティと関係を解消したかったからアカウントを消した、というわけではない。帰省等のタイミングでの集まりごとを僕が率先してやるくらいだから、少なくとも僕は関係が良好だと思っているし、それを維持したいと考えている。
ではなぜアカウントを1個まで減らしたかというと、もっと純粋に、SNSから受ける自分のへの影響を減らすことが目的だったからである。
道具としてのSNS
道具は身体の機能を拡張させるもの。
幾度となく話されたテーマだ。
SNSは意識そのものを具体化したのではないか
養老孟司曰はく、人間の創造物は脳の中でイメージし、それを具体化して出来たもので、そのプロセスおよび結果を脳化と呼ぶ。
では、SNSは何を脳から取り出したものか。SNSは我々の機能の何を拡張するのか。
それは、「意識」であろう。SNSは意識を拡張させた。
旧twitterの投稿のことをツイート、呟きと言うがこれは良い表現だと思う。
頭の中で考えたことすなわちつぶやきを適当に外に放り出す。対面せずともそれに誰かが反応をくれる。
いじわるな見方だが結果として即時的に承認されたい欲を満たせる。
ネットワーキング
ソーシャルネットワーキングという側面で言えば(むしろこっちが本質か)、コミュニケーションが促進される。
いささか脱線してみる。ネットワーキングという言葉は「脳」という臓器を考えるうえで重要な概念だ。
かつては機能局在といって、ある認知機能を担うのは脳の特定の領野(神経細胞集団が物理的に接続された塊だと思ってくれればよい)だと考えられていた。
だが最近は、「認知機能は領野同士の複雑なコミュニケーションで実現されている」という考え方をサポートする研究結果がいくつも出てきている。
つまり、脳はある部分とある部分が協調して(時には抑制して)働くことでその機能を実現しているというのだ。
その様相がまさに「ネットワーク」的なのである。
だがどこか一部分の活動が過剰になったり、不足したりすると、必要なつながりが分断されたり、繋がる必要のないところが繋がってしまう。そうなるとネットワークの本来の機能が損なわれる。認知や意識といったものが壊れ始める。
脳ネットワークの不全はうつ病やアルツハイマー型認知症といった病気に繋がるわけである。
意識の集合体としてのSNS
元来人と人とを繋ぐことがソーシャルネットの存在意義であろうが、他方、分断を招く側面もある。
センセーショナルな投稿は共感あるいは反発を通して増長されていき、もっとセンセーショナルになっていく。
ネットワーク内のあるノードから発せられた情報が、別のノードを介して伝播していく過程でどんどん重み付けされていき、とてつもなく大きいものになっていく。
脳の病気のように、ソーシャルネットはあるユーザ・コミュニティの暴走がネットワーク全体に悪い意味で影響を与え、機能不全に陥っている。
ある時、何の気なしに自分の思いの丈を地元のコミュニティ内の閉じたアカウントで投稿したら友人の一人に「そういう投稿は萎えるからやめて欲しい」と諫められた。実際酷い内容だったからこうやって叱ってくれたことは自分を客観視する機会となったので感謝している。(本当のところ当時は精神的に相当参っていたので許容してほしかった)
「なんとなく思っていることをそのまま放流すると他人の意識(価値観)とバッティングする」ことに気づかされたわけだ。たった10人程度の小さなコミュニティでこういうことが起こったのだ。もっと開いたインターネットという環境であればその頻度はぐっと上がるだろう。
さてこの気づき以来はもう地獄のスタートだ。「他人が見たくないもの」を意識し始めると、今度は「自分が見たくないもの」についても考え出すようになるわけだ。
言い換えると「ノイズ」への感度が高まったわけである。地獄のインターネットのはじまりだ。
「見たくないもの」から受ける影響
ミュートやブロックといった機能はもはやその有効性を欠いている。
ミュートできる単語リストの上限は200までで、僕はそのすべてを使い切っていた。
それでもなお見たくない情報が流れ込んでくるわけだから、僕の「意識」には不調が見られるようになった。
「肩凝り」なんて言葉があるから日本人は肩に不調を覚える。西洋にはそれがないから「肩凝り」がない、なんていう言説があるけれども、「インターネットにおけるノイズ」を意識し出してからインターネットで疲れることが増えた。
タイムラインを見ていると、知りたくもない情報が無意味に無慈悲に入り込んでくるわけだから疲れないわけがない。
毎日誰かが「怒っている」投稿が自分のTLに舞い込んでくる。しかも全く知らない他人の感情だ。
もし友人くらいの近しい距離ならば、話を聞こうかとなるけれど、相手のことは全く知らないから興味がない。ノイズだ。
バズるようなツイートは大抵人々の感情を激しく惹起する。ある「意識」(ユーザ)の暴走は、ネットワークを介して増幅されていく。それが自分の「意識」に飛び込んでくる。否応なしにだ。エコーチェンバーとはよく言ったものだ。
気が付いたら他人の「意識」が自分の「意識」の中に侵食してきている。
自分の大切な時間が、他人の「意識」によって興奮・抑制させられ、奪われていく。
総括
ここまでですでに2000字になってしまったようだが、つまるところ僕が言いたかった「意識を拡張させる道具」としてのSNSとは以上の考え方に基づく。
赤の他人の意識から逃れ、自分を安定させるためだ。
肉体を伴ったコミュニケーションの方がよっぽど健康的だ。
養老孟司が指摘する通り、今の「意識偏重な社会」はいびつだと思う。でもこれはインターネットが登場してまだ1世紀も経ってないから、社会がそれを活用できるだけまだ賢くないだけかもしれない。いずれは良い方向に無かだろう。
現在のインターネットはその規模からも開放的な空間に思われるけれど、実際はもっと閉鎖的で、内向的で、どうしようもない空間だ。
ろくなことがない。
だから、今一度自分のSNSの使い方を見直してみようと思った。SNS本来の機能は「人と繋がる」ことにあったはずだ。だからこそバンド活動という純粋で明快な役割を持ったアカウントだけを残して、上手に付き合うことを選んだ。
アウトロ
最後まで読んでくれた人はありがとうございます。めっちゃうれしいです。
今まではこうやって爆発した自分の中の感情をすべて「つぶやき」として意味もなく放流していたけれども、こうやって文章化したほうが頭の中がすっきりする。
ブログという形式はツイッターと違って読みたい人が読むわけだから、今まで語ってきたような意識のバッティングは少ないと思っている。
少なくともこのブログが自他ともによい相互作用を生むことを願っています。