砂丘の満月

インサイド・アウト 第19話 ゼアーズ(2)

 男の子と僕の意識は混濁した絵の具のように複雑にからみ合った。視界が狭まり、徐々に呼吸が苦しくなっていく。ひとつの脳にふたつの意志が混在したことによって、神経の情報伝達系に混乱が生じているのだろう。これ以上脳に負担をかけないよう、僕は彼の無意識の隅の方に自分の意識を移した。

 他人の肉体に意識を宿す感覚は、まるで編集されていない長い映画を観せられているかのようだった。だが、映画と異なるのは、主人公の感覚を共有している点だ。畳を足で踏みしめる感触。ほこりっぽさと湿気の混じったような古い家屋の匂い。それらの感覚に加えて、さらに僕は肉体の持ち主が何を考え、これから何をしようとしているのか、まるで自分のことのように知ることができた。

「おねーちゃん、遊ぼう!」

 男の子が話しかけた先には、学習机に向かって宿題をする女の子の姿があった。固く結ばれた三つ編みの髪がとてもよく似合う少女だった。少女は鉛筆を止めてこちらを見る。少し困ったような顔をしながらも、うれしそうに微笑んでいた。

「ヒビキは何して遊びたいの?」

「かくれんぼ!」

 男の子が即答すると、少女は残念そうに首を横に振った。

「ごめんね。家の中で遊ぶと、お父さんとお母さんに怒られちゃうんだ。でも……」

 そう言って、少女は思いついたように机の引き出しを開き、何かを取り出した。

「お姉ちゃんの宝物、特別に見せてあげる」

 姉が見せてくれたのは、木彫りのオルゴール箱だった。箱の底のねじを丁寧に回し、もったいぶるようにゆっくりとふたを開ける。次の瞬間、やわらかい金属音が木漏れ日のようにあふれ出て、部屋の中を満たしていった。姉は瞳を輝かせて、オルゴール箱の中をじっと見つめていた。

 箱の中には、すきまなく敷き詰められた赤い布の上に、子供向けの指輪とネックレスが収められていた。

「この宝石には、宇宙が入っているの」

と独り言のように、姉がつぶやいた。

「うちゅう?」

 男の子の問いに、姉は静かにうなずく。「宇宙はね、とっても大きいの。今、私たちがいるこの地球も、宇宙の中ではちっぽけな存在なのよ」

「おおきいのに、こんなにちっちゃいの?」

 男の子は不思議そうに首をかしげている。大きさの概念を知ったばかりの彼には、少し難しすぎたようだ。

 自らの意志で創り出したこの宇宙が、果てしなく大きいものなのか、小さいものなのか、正直なところ僕にもよくわからない。それどころか、今目の前に映る光景が現実なのか幻なのかさえも断言できなかった。亡くなったはずの姉に再び会うことができるなんて、まったく思いもよらないことだった。

 この時間が、いつまでも続けばいいのに——。

 男の子の視覚を通して姉の横顔を認識しながら、僕はこの先に起こることを考えた。

 目の前にいる少女は、幼くしてすでに大人の落ち着きをすでに心得ていた。女性らしさを絵に描いたようなしぐさと器量の良さは、この先、多くの異性の注目を浴びることになるだろう。

 だが、経験上、僕は知っている。異性の目を引くことが、必ずしもその人の幸せにつながるわけではないことを。この少女も例外ではない。彼女の運命は今後、自身の思いもよらぬ所へ、あちこちと引きずり回されることになる。

 先ほどまでの懐かしい想いは、いつの間にか鈍い痛みへと変わっていた。記憶の奥底に隠し持っていた悔恨の念が、古傷のようにうずき出す。

 はかなげなオルゴールの音色が空気に彩りを添えては消えていくのを、僕はただじっと、耳を澄ませて聴いていた。


 いくつもの季節を超え、男の子は少年になり、少女は女性になった。

 少年の姉は、町で一番の美人になっていた。容姿が優れていることはかえって仇となり、不誠実で自己中心的な男ばかりが近寄ってきた。中にはまともな男も何人かいたが、目立つことしか脳のない連中によって存在感がかすみ、姉の眼中には入らなかったようだ。人間的な理性よりも動物的本能にしたがって生きているような連中は、半ば強引に姉に近づいてきて、表面上だけの軽々しい嘘で心を惑わせた。

 姉が最初に付き合ったのは、さほど裕福でもない家庭で、仕事をしていないにも関わらず、やたらと羽振りのよい男だった。高価な服ときつい香水を身にまとい、これまでに買った服や靴の値段をいちいち説明するような奴だった。姉が自慢げに男の話をするのを聞いて、少年はなんとなく察した。その男が金を持っているのは、弱いものから金を巻き上げた結果だということを。

 嘘によって取り繕われた生活にほころびが見えはじめるのに、そう長くはかからなかった。何かがおかしいことに気づき始めた時、姉の心はあっという間に冷めていった。

 次に交際したのは、長距離トラックの運転手だった。寡黙で、何を考えているのかよくわからない男だった。仕事の性質上、一度出発すると、数日は帰って来なかった。収入があるだけ前の交際相手よりはマシだったかもしれない。それでも、少年は男に気を許すことができなかった。寡黙だったからではない。男の動物的欲望の強さを、本能的に感知していたからだった。

 半年の交際期間を経て、姉はその男と結婚したが、男の化けの皮は思いのほかすぐに剥がれていった。ただでさえ家に帰ることが少なかったのが、姉の妊娠が判明すると同時に、ほとんど家に寄り付かなくなった。遠方への配送が仕事とはいえ、一ヶ月以上も家に戻らないのは、高校生になったばかりの少年でもすぐにおかしいと感じた。それでも姉は旦那のことを慕い、信じて疑わなかった。

 馬鹿な女だと思った。何が起きているのか、異性と交際した経験がない少年でも容易に想像がついた。男を見る目も、学習能力もない姉に、少年は心底あきれた。容姿と女らしさだけがとりえの姉は、厳しい現実に対しては驚くほど無力だったのだ。

 だが、無力なのは少年も同じだった。自分の姉がこのような運命をたどることを察知しておきながら、結局のところ、何もできなかったのだ。姉が身籠っている間に、男が他の女の家に寝泊りしていたことを知ったときも、ひとりで怒りに震えることしかできなかった。離婚を申し出るために男がうちに来たときも、部屋に閉じこもって何も気づいていないふりをした。

 少年は、姉に言葉をかけられなかった。姉の顔を見るのが怖かったからだ。今までに経験したことのない出来事だったから、どんな表情をしているのか、まったく想像がつかなかった。それが余計に恐ろしかった。怒っているのか、悲しんでいるのか、もはや何も感じることができなくなっているのか。おそらくどれも正解であり、不正解だったのだろう。少年は臆病だった。確かめる勇気も、すべてを受け止める包容力も、何ひとつ持ち合わせていなかった。かつての僕がそうだったように。


 少年は高校を卒業し、東京の大学に進学した。精神に未熟さは見られるものの見た目は立派な若者だった。僕と同じように宇宙に強い興味を持ち、将来は宇宙物理学者になることを夢見ていた。風呂なしトイレ共同の四畳半に住み、学業とアルバイトに明け暮れる日々を送っていた。

 順調とは言えないまでも、確実に、夢に向かって一歩ずつ進んでいる感覚があった。

 しかしその年の暮れ、姉が入院していることを母親からの電話で突然知らされる。

 白血病の疑いがあるとのことだった。それ以上の詳細はわからない。とにかく、検査のために入院しているのだが、不調の原因がなかなか特定できないらしく、看病に人手が欲しいということだった。大学はちょうど冬休み中だったため、アルバイト先にしばらく休む旨の連絡を入れて、少年は故郷の病院に駆けつけた。

 11月の下旬頃は、姉はまだ自分で用を足すことができていたのだが、12月に入ると立つこともできなくなった。寝たきりの状態になり、少年は母親と昼夜交代で姉の看病をした。床ずれに苦しむ姉の背中を一晩中さすり続けるのは、退屈な作業だった。だが、姉がうめき苦しむ声を聴くのはもっと苦痛だった。26歳の背中は、見るたびに皮膚の張りが落ちていった。姉を形づくっていた女性らしさは、日に日に失われていった。

 ある日突然、少年と母親は医師に呼び出された。姉は白血病ではなく、スキルス胃がんと呼ばれる病気だということが判明した。通常の胃がんと異なり、胃の壁に染み込むように広がっていき、発見されるころには相当進行していることが多いと言われるものだ。姉も例外ではなく、診断が下された時点で、すでに手の打ちようがなくなっていた。現代の医療では有効な治療方法はないと、医者は断言した。

 母から話を聞いた兄は、主治医をやぶ医者とののしり、独自に治療方法を調べ始めた。高いお金を払って、がんに効能があると言われる自然食品を購入し、無理にでも姉に飲ませるよう少年に言った。一方、母は、気功で病気を治癒する力があると自称する親戚に助けを求めていた。皆がわらにもすがる思いで、姉を治療しようと奔走した。

 少年は、世の中の何が正しくて何が間違っているのか、よくわからなくなっていた。医者の言うことが正しいようにも思えたし、兄や母のやっていることも間違っていないように思えた。ただ唯一、断言できることは、少年には姉を治療する医療技術も、自然食品を買うだけのお金も、何らかの施術ができる人物との人脈も、何ひとつ持ち合わせていないということだった。少年は、家族の中で誰よりも、無力で臆病だった。

 12月の中旬になると、姉は一日の大半を眠って過ごすようになった。鎮痛剤の影響もあったのかもしれない。床ずれに苦しむこともなく、安らかに寝息を立てる姉を見るのはうれしくもあり、寂しくもあった。呼吸に合わせて上下する平らな胸を見るたびに、刻一刻とその時が近づいてきているのを、少年は感じ取らずにはいられなかった。

 ある日、3歳になる姉の娘がお見舞いに来た。同じ病室にいたにも関わらず、少年は二人がどのような会話を交わしたのかほとんど覚えていない。記憶にあるのは、いつもより姉の受け答えがしっかりしていたことと、夏希がクリスマスを母親と一緒に過ごすことを心待ちにしていることくらいだった。無邪気に話す夏希に、姉は少し困ったような顔をしながらも、うれしそうにほほえんでいた。かつて少年に笑いかけた時と同じように。

 夏希は「早く元気になりますように」とおまじないをかけたおもちゃの指輪を病室に置いていった。夏希が帰ったあと、姉はしばらく指輪を手にとって眺めていた。そして、再び長い眠りについた。

 窓の外を見ると、外には雪が深々と降り積もっていた。ただ黙々と降りしきる雪を、田舎の何もない道路脇にまばらにたたずむ電灯が、意味もなくスポットライトのように照らし続けていた。

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