砂丘の満月

インサイド・アウト 第17話 デネブの塔(3)

 勢いよく繰り出した足刀蹴りで、等々力は大きくよろめいた。続けざまに腹部を蹴りあげ、一発、そしてまた一発と、左の脇腹に二度、回し蹴りを入れた。等々力はショックでひるんだようだった。人を小馬鹿にしたような笑みは顔から消え、まるで時が止まってしまったみたいに、呆然と僕を見ている。その隙に、今度はより正確に、相手の下腹部にのめりこませた。等々力が苦痛にからだを折っているあいだに、上からまたがり、今度は頭部めがけて何度もこぶしを振りおろした。

 身長一九〇センチメートル超の巨体の持ち主は、その外見に似合わぬ鈍い悲鳴のようなものをあげた。鼻と口から血を流し、顔は腫れ上がっている。

 僕はこれまでに人を殴ったことはなかった。殴ろうと思ったこともなかった。しかし今は、そうしなければならないという使命感に駆られていた。こいつは危険な人間だ。何を企んでいるのかわからないが、よからぬ思想を持っていることは間違いなかった。だから僕が命に代えても消さなければならないと思った。

 でも、頭の中では、もうやめなければならないとも考えていた。これ以上やると殺してしまうかもしれない。殺してしまったら、人として超えてはならない一線を超えてしまうことになる。僕は激しい寒気を感じた。

 そのとき、等々力が笑っていることに気がついた。この男は顔から血を流しながら、にやにやと笑いかけていた。僕が不快感で顔をしかめると、さらに笑いは大きくなった。そして、血糊のついた唇を舌なめずりして、声をあげて笑い出した。こいつは狂っていると僕は思った。僕は殴るのをやめた。

 気がつくと、あたりは明るくなってきていた。淡い朝日が窓から差し込むのを見て、ここに窓があることにはじめて気がついた。仄暗い部屋の全容が、少しずつ明らかになっていった。

 そこはまるで研究室だった。円形の部屋は巨大な本棚に囲まれていて、ところどころに小さな窓があった。部屋の中にはデスクとチェア、それから手術台のような簡易ベッドが備え付けられていた。等々力はここで途方もない時間をたったひとりで過ごしていたのかと思うと、不思議な感覚になった。

 急に戦意を失った僕は、立ち上がろうとした。そのとき——。

 背後から強い衝撃を受けた。一瞬、何が起こったのか理解できなかった。後頭部から背中にかけて、大きな金棒のようなもので殴られた感覚だった。視界が大きくゆらぐ。だが、意識はかろうじて残っていた。

 この部屋に等々力以外の人間がいることに気がついたのは、その直後のことだった。僕のからだは何者かの手によって高々と持ち上げられた。等々力は床の上でからだをくの字に曲げている。僕はそのまま、先ほどの手術台のようなベッドの上に乗せられた。胴体と手足は固く縛りつけられ、身動きひとつとれなくなっていた。

 僕のからだを運んだ者の正体は、先ほど砂漠で遭遇したアリ人間だった。体型は僕よりも小柄だが、甲冑のような殻を身にまとい、手の部分には鋭いかぎ爪のようなものがついている。全部で三匹。僕の周りに立ち、感情のまったく読めない複眼をこちらにまっすぐ向けていた。

「いけませんねぇ、日並さん」

 等々力はひとりごとのようにつぶやいた。それからゆっくりと立ち上がり、僕の方に振り向いた。「私はねぇ、乱暴なことは大嫌いなんですよ。殴る、蹴る。そういった暴力的な行為はもちろん、残酷な描写を目にするだけで全身の力が抜けてしまうほど、敏感で繊細な心の持ち主なのです。あなたのような野蛮人とはハートの作りが違うのですよ」

 そう言うと等々力はデスクの棚を開けて、中から注射器と透明な小瓶を取り出した。注射針の先端が朝日の光で銀色にゆらめく。

「あなたはもう少し、話のわかる人だと思っていました」と等々力は言った。表情ひとつ変えずに、小瓶のゴム栓に注射針を突き刺した。内筒をひいて、中に液体を満たしていく。

 あの液体は何なのだろう。考えるまでもなく、僕に打つために用意しているのは間違いなかった。これから僕はどうなってしまうのだろうか。良からぬ想像ばかりが膨らんでいく。抵抗しようにも全身が拘束されているし、アリ人間たちからも厳重に監視されている。ここから逃げる手段も、逃げるあてもない。

 ここで死ぬのだ、と僕は悟った。その瞬間、ここ数日の一連の出来事が頭の中を瞬時に駆け巡った。仕事で追い詰められ、樹海で命を絶とうと試みるも、失敗に終わったこと。実家に戻り、裏庭に掘られた洞窟の奥底に手を触れたことで、どういうわけか全宇宙のおおもとである《原点O》に転送されたこと。その短い期間に、僕は二度死んだようなものだ。そしてこれから、三度目の死を迎えようとしている。

 等々力は、トントン、と指で注射器を軽くはじくと、ゴム栓から注射針を引き抜いた。満足そうに笑みを浮かべて、僕にゆっくり近づいてくる。

「僕を殺すのか」

「そんなまさか」と等々力は即答した。「新しいモルモットを手に入れて、実験台にしない科学者がどこにいるというのですか」

 言うや否や、等々力は慣れた手つきで僕の首に針を刺した。鋭い痛みが全身に走る。痛みでどうにかなりそうだったが、拘束具が邪魔でからだを動かすこともままならなかった。僕がもがき苦しんでいる間も、等々力は躊躇なく、注射器の内筒をじわじわと押し込んでいる。

「お前の目的は何なんだ?」、やっとのことで絞り出した声は、酒やけした老人のようにしゃがれていた。

「私の目的……そんなもの、決まってるじゃないですか。何者にも生活を脅かされることのない、最高の理想郷を作り上げることが私の目的なのですよ」

 等々力は、新しいおもちゃを手に入れた少年のように、瞳を大きく輝かせている。

「そんな理想郷、あるわけないだろう」と僕は言った。「あったとしたら、それは一部の人間のためだけに都合よく作られた偽物の理想郷でしかない」

「はて、この宇宙にはもはや、人類は私ひとりしか残っておりません。つまり、私こそが人類の代表であり、知的生命体の総意なのですよ。この私が心地よく暮らせる世界こそが、全人類にとっての理想郷と考えて差し支えないと、私は思うのですがね」

 僕の中で、怒りのようなものがふつふつと湧き上がってきた。

「その結果が、これなんだな」、窓の外に目をやって、僕は鼻で笑う。

「人聞きが悪いですねぇ。この宇宙には、確かに私ひとりだけしか人類は残っておりませんが、他の方々はご自分の脳内に新たな宇宙を創造して、その中で世界の創造神として万能の力を手にしているのです。果てしない進化の結果、人類は皆、神となったのですよ。脳内の妄想などではなく、自分の思い描いた姿をした本物の宇宙を創造し、その世界の神となることができたのです。これこそが人類が今まで追い求めてきたことではないでしょうか? そしてこれは日並さん、あなたが最初に試みたことなのですよ。繁殖し続け、資源を消費し続ける人類の行く末を案じたあなたは、宇宙を無限に創造することによって、人々の争いの種となる領土争いが起こらないようにしたのです。この世界をこのようにしたのは、他ならぬあなた自身なのですよ」

「今、他の人々は脳内に新たな宇宙を創造したと言ったな? その人たちのからだは、どこにあるんだ?」と僕は訊いた。

 等々力は一瞬、不思議なものを見るように僕のことを見た。それから鼻の先でせせら笑いながら言った。「ああ、あなたは気づいていないようですね。とっくにあなたはその人々と会っていますよ」

 まさか……。

 僕はすかさずアリ人間たちを見た。等々力はかぶりを振って、口を開く。

「違いますよ。彼らは私が造り出した人造人間です。知能は人間と大差ありませんが、過酷な環境でも生きられるように、肉体だけアリに近い構造を与えたのです。もともとこの宇宙にいた人間たちは、この塔の中でずっと眠り続けているのですよ。脳みそだけの、変わり果てた姿になってね」

 それを聞いた瞬間、僕は理解した。この塔の内壁を覆っていた、金色に輝く液体の入ったガラスの水槽——。あれは単なる金色に液体だったのではない。あれこそが、この宇宙にいた人間たちの変わり果てた姿であり、その中には何次元もの時空間に折りたたまれた無限の宇宙空間が秘められているのだ。そしてその中には、この僕自身の脳と、僕のいた宇宙も含まれている。

「そして、あなたは再び、《ゼアーズ》の一員になり、宇宙の創造神になるのです」

 聞き覚えのある単語を言い残して、等々力は注射針を僕の首筋から引き抜いた。それからアリ人間たちに目配せして、何やら物々しく用意を始めた。足元からはCTスキャンのような筒型の装置がせり出してきていた。それがからだをすっぽりと覆ったところで、僕の意識は、鈍い轟音と共にブラックアウトした。


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