15分日記 2021.9.8 Web投稿のジレンマ
砂場遊びの感覚でnoteを使うことは一長一短だと、薄々感じていた。
誰かに見せることを想定していない、手書きの日記をしたためる程度の気持ちで書いている文章は、やはり人様に見せられるようなものではない。自己満足でしかない。自分以外で喜ぶのは、他人のプライベートを覗き見するのが好きな変態くらいだろう。
ただでさえまとまりのない思考の垂れ流しを、このようにWeb上で晒すことによるメリットは何があるのだろうか? 文章をアウトプットする思考回路を身に付けるためだ。ならば、お粗末な文章をつらつらと書いていても、その目的は達成できるのか? まずはお粗末でも書けるようになることが先決。そんなことで本当に書けるようになるのか? 知らないけど、やってみるしかない。
一方は疑り深く、一方はとりあえずやってみろと言う。終わりのない自問自答。確かに、もうひとりの自分が言うように、自問自答して立ち止まるくらいならやってみればいい、というのも正しい。こんなことで果たして本当にまともな文章を書けるようになるのかと疑う自分も正しい。
同じようなことを、小説でもやっている。気の向くままに作ってみては、何か違うなーと思って壊してみる。ここは試行錯誤の場。高価なキャンパスを用意して、傑作を書こうと意気込むことは、今はない。
だけど、果たしてそんな人の小説を読みたいと思うのだろうか?
今回は読んでくれたとして、次もまた読んでみようと思うのだろうか?
思わないだろう。作者自らがお遊びであることを認めている小説を、ぜひ読んでみたいと思う読者は、よほどの熱狂的なファンか、あるいはやはりそういう趣味をもつ大変態くらいであることは想像に難くない。
公募向けの小説を書くようになってから、真面目に書いた作品ほどWebにアップするのを惜しむようになった(これは今アップしている小説に対するあからさまな予防線でもある)。でも、誰かに読まれたいという欲は消せない。そこで、手軽なものをささっと書いて、アップする。これを繰り返していくと、明らかにリアクションが減ってくるのがわかる。つまらないものを書く人というレッテルを押されていることが「スキ」の少なさから感じ取れる。
だからといって、全神経を注いで書いた〝全力〟の公募作品はどうかというと、こっちもぱっとしない。まったく評価されない。自分で読んでみても、なんか無難な線に落ち着いている感じがして、面白くない。
そうなってくると〝全力〟の小説をまたnoteにアップしたくなってくる。しかし残念なことに、Webにアップした小説は公募に出せないケースが多いので、ターゲットにしている公募の規定を隅々まで確認した上で投稿するか判断しなければならない。
一言で言うと、公募に出すようになると、真剣に書いた小説ほどWebにアップできない。勝負作ほど、人目に触れられない。そういうジレンマがあるよねって話。
だったら落選したあとでアップすればいいじゃないかという声も聞こえきそうだが、落選作をそのままアップするのはさすがに気が引ける。せめて自分の納得の行く仕上がりに持っていかないと、適当に書いた小説をアップするよりも罪深い感覚がある。
長々と書いたが、到達した結論はというと、「ジレンマなんてくそくらえだ。思うがままに書け、読め、食え、寝ろ」ってことくらいである。
以上、ご査収ください。