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インサイド・アウト 第6話 記憶の欠片(1)
Sの声はほつれた糸のようにか細く、今にもどこかへ飛んでいきそうだった。
初め、わたしはしばらく彼の言っていることを聞き取れなかった。それが電波のせいなのか、単に彼の声が小さいだけだったのかはわからない。でもやがて耳が慣れるにしたがって、初めはノイズのようにも聞こえた彼の声を次第に聴き取れるようになっていった。
「……もしもし……Sですけど」
そのありふれた定型句を今にも消えそうな声で繰り返す彼は、少なくとも悪い人ではなさそうだった。控えめで、他人の嫌がることをするのは憚るタイプの人間だ。そのせいできっと今まで幾度となく損をして来たのだろう。わたしは、悲痛な叫びが綴られた彼のSNSの投稿を思い出した。
「はじめまして、マイです」、わたしは本名をカタカナにしただけの何のひねりもない自分のハンドルネームを名乗った。声にならない声が聴こえる。きっとSが返事をしたのだと思った。それから、疑問に思っていることをそのまま訊いた。「Sさんは今どこにいるんですか?」
沈黙が降りた。電話の向こう側からは、彼の息遣いどころか物音ひとつしない。最初からいきなり核心に触れるようなことを訊いてしまったのかもしれないと、わたしは自分の失態を恨んだ。
「ごめんなさい。どこにいるかなんて、見ず知らずの人に話したくないですよね」
慌てて前言を撤回し、他の無難な話題を探そうとした。だが頭に思い浮かぶのは、彼がSNSに投稿していた暗い心の叫びばかりだった。内容のひとつひとつがやけに鮮明に思い起こされる。彼が仕事に追い込まれていたこと。周囲に相談できる相手がいなかったこと。自らの中にもともと潜む暗い一面に心が支配されてしまっていること。
電話越しにSの微かな息遣いが聞こえたかと思うと、先ほどより少し近い距離でSの声が聞こえた。
「いまは自宅で横になってます。こちらこそ、すみません。反応が遅くて。人と話をするのは、何だか久しぶりで……」
「そうなんですね。わたしも普段話し相手がいないのですが、今日は珍しく外で友達と遊んで、少し疲れちゃいました」
「それなのに電話させてしまってすみません。疲れてたら言ってください。すぐ切りますから」
「いいえ、わたしは大丈夫です。さっき少し休んだので……」
わたしは咄嗟に嘘をついて声を出して笑ったが、Sからの反応はなかった。気を遣わせてしまったのかもしれない。わたしは申し訳なく思いながら、Sの言葉を待った。
そのまましばらく会話が途切れた。
わたしはなぜSに興味を持ったのか、そしてなぜSからの呼びかけに答えようと思ったのか、自分でも不思議に思った。人付き合いは苦手だし、初対面の人との会話も得意ではない。だがわたしは、Sと話をすることで、自分の知らない新たな自分を見つけられるような気がしていた。それが何なのかはわからないが、とにかく何か一歩踏み出せるように思ったのだ。
「お仕事、大変そうですね」とわたしは言った。妙な緊張感から解放されて、自然に出てきた言葉だった。
「僕の投稿を読んでくれたんですか?」
こんなことを訊いたら鬱陶しがられると思っていたが、意外と嬉しそうな声が返ってきて、わたしはひとまず安心した。
「はい。投稿、拝見させてもらいました。どういうお仕事をされているのかわかりませんが、とても大変そうだなって。わたしは仕事そのものよりも対人関係で悩んで仕事を辞めたので、仕事とちゃんと向き合って責任を全うしようとしているSさんがすごいと思います」
「僕も結局は対人関係に問題があるようなものです。それに、責任感なんて全然ないですよ。本当に責任感がある人は、問題になりそうだと思ったら周囲に相談して、問題が小さいうちに片付けるでしょう」とSは抑揚のない声で言った。
「すみません。わたしなんかが偉そうに……」、何か気に障ることを言ったのかと思い、わたしは急いで弁明した。「何と言って良いかわからないのですが、仕事もせずに実家にこもっているわたしから見たら、ちゃんと社会に出て、荒波に飲まれそうになりながら頑張っているSさんは十分すごいと思うんです。わたしなんかと比べたら、まるで月とすっぽん。雲泥の差です」
話しているうちに自分が何を言っているのかわからなくなっていたが、それでも自分の思いを何とか伝えられたという手応えはあった。
「……いえ、僕を元気付けようとしてくれたんですよね。ありがとうございます」
そう話すSの声は少しも元気ではなかった。問題はそのような表面上の話ではないのだ。そうはわかっていてもその程度のことしか言えない自分の引き出しの少なさを嘆くしかなかった。
「転職は考えないのですか?」
「考えなくもないですが、僕は大学中退なので学歴は実質のところ高卒なんです。それに、長年IT系の業種にいるにも関わらず、大した資格も取っていない。資格なんて飾りのようなものだと思っていたから、勉強をすることはあっても試験を受けることはしなかったのです。今どき、高卒で資格もろくに持っていない三十代の男を雇ってくれる奇特な会社なんてありませんよ」
知名度はさておき、一応、大学を卒業しているわたしはSに掛ける言葉が見つからず、ただ「そうなんですね」と相槌を打つことくらいしかできなかった。
「いい年して、こんなこと言うのもなんですが」、そのように前置きしたあとで、Sは語り始めた。「僕たちはどうして働かなくちゃならないのかなって、ふと思うことがあるんです。バカなことを言っているって思いますよね。当然、生活をするためです。誰かのためになることをした対価としてお金を得て、それで衣食住をまかなうためなんです。まずはそれが前提にあります。仕事に生きがいとか、やりがいとか見出す人もいますが、それは最低限の生活地盤が確立された人が考えることです。生活すらままならない人が、誰かのためにボランティアに勤しむでしょうか」
Sの話すことは若干支離滅裂な気はしたが、わたしはその意味を十分に理解できた。いや、わたしだけではないだろう。世の中には、社会の歯車の一つとして回らなければならないことに疑問を感じている人は少なくないと思う。頭ではわかっていても、体がそれに馴染まないのだ。それは単なるわがままなのかもしれない。でも、その一言で片付けられるほど簡単な問題でもない。
わたしが考えていると、Sはさらに話を続けた。
「でも、僕が言いたいことはそういうことじゃないんです。お金がないと生活ができない。そのためには仕事をしないといけない。人様の役に立たないといけない。それは納得できますし、仕方のないことだと思います。
僕が言いたいのは、そこにある《違和感》の正体です。僕たちは生まれながらにして、すでに出来上がっている社会のシステムの中に放り込まれます。その社会では、他人のために働ける人は生活できますが、何らかの事情でそれができない人は飢え死にするか、社会的立場や尊厳と引き換えに国の保護のもとで暮らすか、大きく分けてそのどちらかなのです。
この社会に順応できた強者たちは世界を我が物顔でのさばり、そうでないものは強者たちのご機嫌をとって静かに息を潜めて暮らす。結局のところ、弱肉強食の原理は何一つ変わっていない。まるで人間は高度な文明を持つ知的生命体で、美しい社会を構築して皆で平和的に生きているかのように教わって育てられてきましたが、実際には野生動物のそれと変わりがないのです」
Sの話を聞きながら、わたしは胸が痛くなった。まるで自分のことを言われているような気がしてならなかったからだ。だが別に彼はわたしのことを傷つけようとしているのではないのはわかっていたし、わたしも彼と同じようなことを考えることはよくあった。この資本主義社会のシステム上、働かないと生きていけないのは仕方のないことだと理解しているつもりだ。それでも、そこには息苦しさが常に存在した。その息苦しさは《違和感》であり、それは弱肉強食の世界において自分が自然淘汰される側になってはじめて理解できるものであることを、わたしは経験上知っていた。
人間には誰もが生きる権利があるし、親から与えられた命は大切にしなければならない。昔からそう言い聞かされてきた。しかし実際には、生きる権利はあっても、その能力や環境が平等に与えられるわけではない。自分が何者であるかもわからないまま、望みもしない環境に放り込まれ、そこからどのようにして這い上がるかを試されるのだ。だからと言って、優秀な遺伝子と恵まれた環境が与えられたからといってうまくいくとも限らない。どちらをとっても苦しいし、どちらも理不尽であることには変わりはないのだ。
きれいごとで片付けられるほど単純な問題ではない。それなのに、きれいごとで済まそうとする人たちで、世の中は満たされている。「命は大切にしなければならない」と言いながらも、自分の生活の邪魔をする害虫や雑草に対しては、何のためらいもなくその命を絶とうとする。それも、目を当てられないほどの残酷な手段で。弱肉強食の社会における弱者もまた、同じように迫害される。誰からもその存在を疎まれ、厄介者扱いされる。税金の無駄使いと言われ、親不孝者と言われる。そこには高度な文明のかけらすら感じられない。
Sは静かに言った。
「僕が何もかも嫌になったのは、そのようなことを考えてしまったからなのです。仕事が辛かったのも確かにあります。でも、僕の根底にそのようなどす黒いものが流れているのがそもそもの原因なんです。なんかもう、何に対しても希望を見出せなくなってしまって、それで……」
「だから《青木ヶ原樹海》に行ったのですか?」
電話の向こう側でSの息を呑む音が聞こえた。
そのままわたしは話を続ける。
「そういえば、こないだ《青木ヶ原樹海》の写真を投稿してましたよね? あれ、すごく綺麗でした。神秘的で、幻想的で、包容力もあって、それでいて無慈悲な恐ろしさも感じるような、この世のものとは思えない美しさでした」、わたしは目一杯の語彙を捻り出し、なんとかして感動の気持ちを説明しようとした。
しかし、Sはしばらくの沈黙ののち、こう言った。
「僕はそんな写真、投稿していませんけど……」
微妙な空気が走る。
「そうなんですか? 確かに見覚えがあったのですが……」
「別の人の投稿と間違えたのでは?」
「いや、そんなはずは……」
確かにそのときは少しばかりお酒を飲んでいた。が、他人の投稿と見間違えるほど酔いつぶれてはいなかった。
「でも不思議ですね。よりによって《青木ヶ原樹海》だなんて」
わたしは、Sがなぜそれを不思議だと言っているのかわからなかった。