中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第3話 不在着信と差出人不明の手紙(2)

 男と電話をしている間に、夕飯はすっかり冷めていた。

 温め直すこともせず、冷めたご飯に味噌汁、それから固くなった鯖の塩焼きを小分けにして口に運んだ。食事は大体このような質素なものを用意することが多かった。僕は昔から食べるという行為に執着がなかった。

 食事を喉に通しながら、昔のことを思い出していた。僕の身体が痩せ細っているのは、幼い頃からずっと少食だからだ。母が出す食事はいつも貧祖だった。量だけでなく種類も乏しかった。茶碗一杯の白米に味噌汁、それにちょっとした惣菜が一品出るだけ。その一品だけの惣菜を細かく分割してご飯のおかずにした。少ない食事でも十分に満足できるようにする術を、物心ついたときから僕はすでに身に付けていた。

 家の食事より、学校の給食の方が遥かに贅沢だった。家の食事に慣れすぎていた僕には量が多すぎたが、僕のいた学校では給食の量を減らすことは絶対に許されなかった。胃の許容量を超えているにも関わらず、全部食べ終わるまでは教師から解放してもらえなかった。食べ物を残すことは、盗みや暴力と同等の「悪」として扱われていた。昼休みに入り、クラスメイトたちが校庭や体育館で遊んでいる間も、僕は独りで教室に残って給食を食べ続けた。その間は常に晒し者だった。テレビの時代劇などでよく見かける「見せしめの刑」と自分を重ね合わせたりもした。僕にとって昼休みとは、自分の恥を晒すための時間でしかなかった。


 夕食を終えた後は、絨毯の上に横になって適当にテレビを見て過ごした。だがテレビの内容はほとんど頭に入って来なかった。その代わり、昔の嫌な記憶が頭の中に次々と映し出されていた。それから時々、昼間に会った左右対称の顔の女と、先ほどの電話の男のことが頭に思い浮かんだ。

 今ではなく、苦しかった幼少時代にあの女から手を差し伸べられていたなら、きっと迷わずその手を握り返していただろう。それがたとえ死ぬことを意味していたとしても、僕のことを知る者のいない新しい世界に行くことができたのなら、僕は快くそちら側の世界に旅立つ覚悟があった。家族も学校も、生まれ育った環境も全て投げ出して、新しいスタートを切りたかった。

「何をいまさら……」

 反芻する思考に、苛立ちを感じ始めていた。この怒りをどこに向けてよいかわからず、僕は久しぶりに酒が飲みたい気分になった。

 立ち上がり、冷蔵庫の中にアルコール飲料が一つも入っていないことを確認すると、僕はすぐに財布と鍵だけ持って玄関を出た。

 昼間の暖かさとは異なり、外は春相応の冷えた空気が流れていた。玄関のドアを閉めると、「カチリ」とオートロックがかかる音が、マンション中に冷たく響き渡った。階段で一階まで降り、集合ポストの前を通って、エントランスから外に出た。

 住宅街は車通りがなく、しんと静まり返っていた。

 日曜日の夜ということもあり、人影はひとつも見当たらない。静かな夜道をぽつぽつと照らす街灯が、スポットライトのように僕を優しく導いているかのようだった。この世に自分だけが生き残っているかのような特別な感覚に、僕は悪い気はしなかった。

 コンビニに入り、缶ビールを三本と簡単なおつまみを買った。ビールの炭酸とほのかな苦味は、嫌な気持ちと口寂しさを誤魔化すのに適しているというのが僕の持論だった。アルコールが手に入ると、少しだけ気持ちが楽になった。

 ビニール袋を片手に気分良くコンビニを出ると、少しだけ散歩したい気分になっていた。僕は少しだけ遠回りして帰ることにした。

 少し歩くと、大きな建設現場があった。そこにある、高さ十メートル以上はあろうかと思われるほどの巨大な掘削機に思わず目がとられた。油田や温泉を掘削するための機械だ。こんな都会のど真ん中に温泉施設でも建設しようというのだろうか。

 それを見て、僕は再び、幼少の頃に穴掘りに夢中になっていたことを思い出した。

 僕の地元は、どの家にもそれなりに広い土地があった。僕の家も例外ではなかった。小学校から帰ると、嫌なことを忘れるために庭の一角に穴を掘り続けた。辛い学校生活から逃げるために、愛情の感じられない両親から逃げるために、僕はひたすら穴を掘っていた。弱々しい肉体を作り上げた遺伝子。家庭環境。何もかもが嫌で仕方なかった。

 僕は小学生の時点で、人生は平等ではないことをすでに悟っていた。世の中の常識では、義務教育が終わった後は高校に進学し、大学へ行き、そして就職して、結婚し、子を産み、定年まで働く。そのような当たり前とされる人生は、僕にとっては到達不可能な目標に見えた。だから、せめてもの悪あがきとして、この世界から抜け出してやろうと常に考えていた。

 ここでふと疑問に思った。


 あの穴は、あれから一体どうなったのだろうか?


 高校進学と同時に僕は家を出て寮で暮らすようになった。それからというもの、僕はほとんど実家には戻っていない。だから結局あの穴がどうなったのか、僕は最後を見届けていなかった。それにそもそも子供の頃に穴を掘っていたこと自体、今日まで完全に忘れていた。でも、どうしてこんな昔のことを突然思い出したのだろう?

 建設現場の掘削機を見たことが引き金になったのではない。女と喫茶店にいた時から、僕はこの記憶をすでに取り戻しつつあった。

 左右対称の顔の女の言葉が頭の中に蘇った。


「あなたをこの世界から連れ出そうと申し上げているのです」


 漆黒の海に浮かぶ孤独な月が、頼りなく僕を見下ろしている。その様子に、僕は幼い頃の自分の姿を重ね合わせた。

 静かな住宅街の中、持っているレジ袋の不快な摩擦音だけが異様に響き渡っていた。

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