きまぐれ日記 2021.8.28
「きまぐれ日記」なのに2日間連続して投稿していることを、まずは褒めていただきたい。
さて、昨日の日記で「創作のことで近頃ちょっとした発見と進歩もあった」と記した件について、今日は少しだけ書きたいと思う。まとまりきってないので、たぶん今日だけでは書き切れないかな。
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最近、noteで小説を投稿することはめっきり減ったけれど、地味に活動はしていて、短い小説を書いては小さなコンテストに応募するようなことを細々とやっていた。
最後に応募したのは、とあるWeb上のコンテストだった。Webなので、他人の作品を読むことができた。自分が投稿する前後で、合計して投稿作品の4分の1くらいは読んだと思う。250作品くらいかな。読んだ結果、自分の作品をそこに並べても遜色ないと思った。それどころか自分の作品がトップクラスだと思った。うきうきして結果発表を待った。
結果はまったく振るわなかった。4分の1ほどの人が通過した1次選考すら通らなかった。
頭を抱えた。小説書くのなんてやめてしまおうかとも思った。素質なんて言葉を使うのは好きじゃないけど、自分には本当に素質がないんじゃないかと考えたりもした。自分の中で、才能とは後天的に成長し得るもので、素質とは生まれながらに備え持ったものと理解しているので、素質がないというのは死刑宣告に近い。
まさかの1次選考落ちから2週間ほどは、完全に小説の筆を折っていた。その代わり、現実逃避でイラストの練習をしていた。Youtube動画を観たりして、割と真剣に学んで、実践した。
小説とは違って、イラストの巧拙は簡潔明瞭だ。特に自分みたいなずぶ素人となると、何も考えずに描いた絵はやはり目も当てられないくらい下手くそだから、下手であることを自分で認めざるを得なくなる。けれども、いろいろとポイントを意識して、時間をかけて描くことによって、元の実力以上にうまく描けたりもした。オリジナルのイラストではなく、ただの模写ではあるけれど、それでもコツを押さえて練習すればするほど上手になった。
その過程で、小説に対しても気づきを得ることができた。個人的な感想としては、創作の性質的なところは、イラストも小説もそれほど変わらない。一定以上上達すると、他人の作品にケチをつけたくなる。上手なイラストであっても、何らかの落ち度を無理矢理にでも見つけて、自分の方がうまいと思い込もうとする。小説でも同じことを自分はやっていたのだ。同じコンテストに応募していた他人の作品を読むそぶりだけして、単に文字面を上滑りして読んでいただけだったのだ。実際にはほとんど読んでいなかった。読む前から自分のよりも劣った作品だと決めてかかり、ありもしない欠点を脳内で創造して指摘した。今思うと、これはくだんのWeb小説に対してだけじゃなかった。かつて自分が1次選考通過したことのある大きなコンテストで受賞した作品に対しても、巷の様々な公募の過去受賞作に対しても、かなり歪んだ読み方をしていた。つまらないな、と思っていた。わざと頭に入らないように軽くパラパラと読み流して、自分の方が面白いものをかけると心の中で罵った。
その事実に気がついたとき、自分はスランプに陥っていたのだと初めて自覚した。それまでは自分がスランプなんじゃなくて、世に溢れている小説の方がおかしいんだと思い込んでいた。こんな小説を認めて世に送り出す編集者がおかしい。それを面白いと崇め讃える読者がおかしい。
この状態に陥ること自体はダメなことではないと思っている。自分で実際に何作か小説を書き上げ、さらにたくさんの作品を読み込んで目が養われていったことによって、理想と現実が浮き彫りになったのだ。そのギャップが他人の作品への批難という歪んだ形で表れただけにすぎない。ここは素直に、自分の実力を認めて、他人の欠点を脳内で創作する分のエネルギーを自分の技量を上げることに費やせばいいってだけの話なのだ。
そう考えた途端、他人の作品を素直に読めるようになった。某コンテストで入賞して書籍化された作品を読んで面白いと思えたし、具体的に何がよかったのかを挙げられるようになった。これは自分としてはすごい進歩である。
ひょっとしたら、これは創作する人の多くが通る道なのかもしれない。そう考えると、創作者ってすごいなと思った。現在に至るまで気が狂うような思いをしたこともあるのかもしれない。それに耐えてきただけでも充分にすごい。たぶん、多くの人たちは耐えられずに途中で投げ出すのだろうけど。
なんか大袈裟な感じになってきたけど、あんまり大それたことを考えてるつもりはなくて、これからも単純に創作を楽しんでいければいいな、って思っているだけだ。コンテスト入賞とかもいいけれど、純粋に楽しめないと、自分としてはやってる意味がない。まあ、これである程度稼ぐことができるのなら、それに超したことはないんだけどね。