砂丘の満月

インサイド・アウト 第19話 ゼアーズ(3)

 姉の命のともしびはほとんど消えかかっていた。唇は本来の潤いを失い、薄氷のような白いかさぶたを表面にまとっている。ベッドの中からひょろりと覗くカテーテルの中を、灰汁のようなもので濁った液体が意味もなく往来していた。尿を排出するための管の中をどうして液体が逆流するのか少年は不思議に感じながらも、ときどき思いついたように大学の教科書を開いては、世界を織りなす数式の美しさに息を呑むのだった。

 それでも本を読んでいる間はどうしても落ち着かなかった。数分おきに書物を置き、寝息を立てずに眠り続ける姉の口元に耳を近づけた。それからまた例の管を観察して再び本を開くというサイクルを夜が明けるまで繰り返した。

 雪が止み、外は淡い明るみを帯びていた。看病用に用意されたパイプ椅子から立ち上がり、結露で濡れたガラスを素手で拭うと、一面を覆う青い雪景色が視界に飛び込んできた。その神秘的な光景に、少年はしばらく釘付けになった。見慣れたはずの田舎の風景が不思議と新鮮味を帯びている。

 ガラス越しの冷気が少年の喉仏を撫でた時、病室の空気がわずかに揺らいだ。

「……キ…………」

 少年ははっとして、後ろを振り返った。寝巻きの袖から覗く細い腕が、何かを求めて宙を掴もうとしている。天井に向かっていびつに曲がるその腕は、太陽に向かって樹枝を伸ばす老木のようだった。

「おねえちゃん?」

「ヒビキ……聴こえる?」

「うん、聴こえてる」

 少年の声を聴いて安心したのか、姉は腕を下ろして息を深く吐いた。それから落ち着いた様子でゆっくりと口を開いた。

「あのね」

 姉は息を切った。

「なに?」

 恐る恐る、少年は尋ねる。

「おねえちゃんの家にあるパソコン、よかったら、もらってくれないかな」

「どうして、急にそんなことを……」

「大学の勉強とかで使うでしょう?」

「いや、そうじゃなくてさ」

 遺言のような姉の物言いに少年はとっさに否定するも、それ以上言葉が出てこなかった。どう返答するのが正解なのか、わからない。

 母親の強い希望により、姉に病気のことを告知しないことになっていた。今入院しているのはあくまで検査のためだと口裏を合わせていた。明らかに不自然な言い訳だが、今まで何とか隠し通せてきたのは、それ以上のことを姉が深く追求して来なかったからだ。しかし真実を共有していないことは姉との間に何とも言えぬ気まずさを生んだ。比較的状態が良く姉が話せるような時ほど少年は何かを訊かれるのではないかと怯えた。それならば物言わず眠り続けていてくれる方がまだ楽だった。

 そもそも少年は母親の意見には反対だった。もし自分が同じ境遇になったのなら、嘘偽りなく真実を伝えて欲しいと思った。今でもその考えは変わらない。母は良かれと思って判断したのだろうが、その配慮は姉をひとりの人間として敬意を払っていないことの表れのように少年には思えた。それに何より本人の肉体なのだから本人が一番知る権利があるし、絶望し塞ぎ込んだとしてもそれを受け入れるのが家族というものだろう。

「おねえちゃん、あのさ」

 少年は意を決して話し始めた。だがその続きを打ち消すかのように、姉が口を開いた。

「私、もうすぐ死ぬんだよね」

 穏やかな口調で言われ、少年は息を止めた。

「黙っているのも辛かったよね」

 その一言に、全身の力が抜けて、パイプ椅子に座り込んだ。合皮の座面はすでに温もりを失い冷たくなっている。

 姉はすでに気づいていたのだ。病気のことも、もう長くないことも。

 少年は何も言わなかった。しかしこの沈黙の時間がすべてを語っていた。

「でもおねえちゃん、まだ死にたくないなぁ」

 呑気な声で、姉は言った。クリスマスを楽しみに待つ姪の姿がリアルに思い浮かぶ。夏希は今も兄夫婦の家で慣れない布団に横になりながら、再び自分の母親と生活する場面を想像しているだろう。それを考えると、少年はこれ以上どんな言葉をかければよいのかわからなくなった。

「指輪、取ってもらえる?」

 不安定に腕を上げてチェストを指差す姉に、少年は何も言わず、指輪を渡した。

「覚えてるかな? まだ響が小さくて、そう、ちょうど今の夏希くらいの歳でさ——」

 少年はうなずいた。

「響はなかなか信じてくれなかったよね。この指輪の中に、大きな宇宙が入っているということを」

 少年は「うん」とうなずいた後、今度は首を横に振った。「でも、今は少しだけ信じてる。宇宙は、無限の広がりを持ちながらも、無限に小さくなることができるって」

 このような理論を提唱した学者はこれまでにひとりもいない。だが少年は、姉の言葉に妙な説得力を感じていた。真実を追求するにあたって、人間の思考と五感がいかにあてにならないものかを知っていたからだ。

 森が緑色をしていて、空が青く感じられるのは、そのように脳が処理しているからであって、それ自体が本来持つ性質なのではない。我々は生命として存在している時点で、生きる上で必要な情報だけを取り込むように作られている。生命というフィルタを通して、我々は便宜上の物質を認識しているにすぎないのだ。

 喜怒哀楽。それから、生と死。これらもまた、我々が未来に向かって進んでいくための虚構でしかない。

 少年が考えていることを見通しているかのように、姉はこくりとうなずいた。

「この世界は、いろんな感情で満ちあふれている。歓び、悲しみ、うらみ、ねたみ、怒り……。それらの感情もまた、真実ではないのよ」

 遠くの方を虚ろに見ていた眼差しを、急に少年に向けた。失われた自信と気品を取り戻し、瞳には強い意志が宿っていた。少年の瞳を貫くように見つめながら姉は話を続ける。

「生命として誕生したあなたは、感情によって操られているだけにすぎないの。生きたいという気持ちが本能によるものだとすると、死にたいという気持ちもまた、あなたを守るための大切な衝動なんだって、私は信じている。今までも、これからも、ずっと——」

 どうして姉が突然このような話をしたのか、少年は理解できなかった。だが、僕にはわかった。彼女は少年を見ているが、彼に対してではなく、その瞳の先にひそむ僕に向かって話しているのだと。

 灯火消えんとして光を増す。まさにその言葉通り、姉の目は突然力を失い虚ろになった。宙を舞う塵を追うかのように眼球が不安定に揺れている。そこにはもう人としての明確な意思は見られなかった。

 もうすっかり外は明るくなっていた。轍に沿って走行する自動車がちらほらと見えはじめ、飛来してきたツグミが雪野原の上に足跡を残していく。病室の外は夜勤から日勤への入れ替わりで看護師たちの話し声や動きが慌ただしくなっていた。雲ひとつない空から注ぐ太陽の光が、南向きの窓から、今にも差し込もうとしていた。

 葬儀のとき、家族や親戚の中で少年だけは最後まで泣かなかった。こうなることは前からわかっていたし、病院で亡くなってから葬儀が始まるまでの間、家に遺体を安置していた時からすでに心の中で何度も無念の思いをしたからだ。外から人を集めて儀礼的なものを行ったからといって心情的に何か変化が起こるわけではない。涙で目を赤くして鼻をすする人たちを冷めた気持ちで見ていた。初めての葬式が年の近い姉のものにも関わらず、冷静に状況を分析している自分が恐ろしく感じた。このようにして自分はやがて巡り会うかもしれない大切な人や自分の子供に対しても、無感情で冷たく接するのだろうかと想像した。もしかしたら自分は、姉を不幸へと陥れた男どもと同じ類の人間なのかもしれないとさえ考えた。

 少年の不安定な心を感じながら、僕もまた、魂が揺さぶられるのを感じていた。

 人の運命というものは前もって決まっているものなのか。性格が遺伝子だけでなく環境的要因によっても変化するのと同じように、病気だって、環境的要因によって発症時期が大きく変化してもおかしくないはずだ。

 なのに少年の姉は、僕の生きた宇宙の姉とまったく同じ運命を辿った。ろくでもない男に弄ばれ、人生を台無しにされた挙句、乳離れしたばかりの子供を残して他界した。姉は美しかった。そしてまるでその美を永遠に維持するかのごとく、若くして亡くなった。姉の女らしさの所以は、美しさを失うことを極度に恐れ、実際に行動に起こしてしまうほどの遺伝子の意志の強固さから来るものなのかもしれないと思った。

 それにしても、なぜこうも運命というものは残酷なのか。

 僕はふと、初めて《左右対称の顔の女》と会った時に彼女が話していたことを思い出した。

 必要な条件が整えば、辿るべきプロセスは自然と導き出されます。その条件は、すでにあなた自身が選択しているのです。あなたが自らの意思によるものだと信じて疑わないものは、実は、自らが整えた条件によって必然的に辿る道筋だったということなのです。

 この言葉を文字通りに解釈すると、姉の運命はすでに決まっていたということになる。

 ということは、姉は若くして死ぬ運命を辿ることを自らの意思で決めていたと言うのか?

 いや、違う。

 この宇宙は他ならぬ僕自身が創り出した宇宙だ。だからすべての意思はこの僕自身のものであるはずだ。両親も、姉も、すべて僕が自分の意思で創造したものである。姉が悲劇の死を遂げたことも、僕自身の選択によるものなのだ。

 ということは、つまり——。

 僕はひとつの可能性に思い至った。

 この世界の結末が気に食わなければ、すべてを取り消して、再び創り直せばいい。姉の未来も、夏希の未来も、僕の思うがままに改変してしまえばいい。ただそれだけの話なのだ。

 その日の晩、僕は夢の中で、少年に語りかけた。少年が認識してくれたかどうかはわからない。僕は一方的に少年に挨拶を済ませ、この宇宙を創り出した時と同じように、意識を一点に集中した。持てる限りの想像力を働かせて、破壊と消滅のイメージをできるだけ具体的に描いた。すべての有を、無へと帰す。この広大な宇宙に存在するすべての物質をひも解き、文字通り、目に見えない微小の〝ひも〟へと戻していった。ほどかれたひもはやがて振動を止め、世界は冷え、そして何もなくなった。

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