砂丘の満月

インサイド・アウト 第13話 満月の夜、穴の中(2)

 高校入学まで過ごしていた部屋は、まるで僕が今日帰って来るのを事前にわかっていたかのように、きれいに整理整頓されていた。使っていた学習机と本棚が置かれている場所も、当時と全く変わりがなかった。

 学習机は新品のように表面のコーティングが白く反射していた。本棚には、辞書や学習辞典、それから愛読していた小説やマンガが順序よく整列している。その本棚の上には、小学校の卒業制作で作った木彫りのオルゴール箱が、埃一つ被らず置かれていた。

 いつの間に掃除をしたのだろう? 居間に通されて姉の仏壇に線香を上げている間、母が居間を出て行く様子はなかった。姪の夏希はずっと部屋に篭っていたし、彼女が僕のために部屋をここまで掃除する理由はないはずである。

 それこそ本当に今日僕が帰って来ることを母が知っていたか、あるいは常日頃から掃除していたかのどちらかであるが、どちらにせよ不可解なことには変わりはなかった。

 本棚の上にあるオルゴール箱を手に取ると、そこには幾つもの太陽系の惑星が丁寧に彫刻されていた。かつて自分が彫ったものとはいえ、その精巧な作りに思わず息を飲む。

 すると、幼い頃の記憶が走馬灯のように次々と頭の中に流れた。無限の可能性を秘めた宇宙に自分の将来の姿を投影していたこと。太陽よりも大きな星があるという主張に、全く聞く耳を持たなかった愚かな先生と同級生たち。宇宙物理学者になることを目指して、脇目も振らず勉学に励み、都内の有名大学に進学したこと。姉の死。鬱。大学中退。志半ばで諦めた夢。それからごく普通のサラリーマンとして何とか人生を持ち直したこと。安定した社会人生活の中、目の前に突然現れ、この世から連れ出してくれると言った《左右対称の顔の女》。自宅マンションに突然届いた謎の手紙。はくちょうの装飾が施された白い封筒と、その上に散りばめられた12個のまばらな宝石たち。一度会って以来、二度と会うことのなかった《黒ベストの男》。絶望。そして自殺未遂。

 これまでの出来事が、一瞬のうちに駆け巡った。

 部屋の窓から外を見た。このような片田舎でも、黒ベストの属する会社——アウトベイディングは、僕の監視を続けているのだろうか。それとも、僕の自宅マンションにいるはずの《左右対称の顔の女》の姿を捉えるべく、今もどこかで彼女を監視しているのだろうか。

 太陽系の惑星が掘られたオルゴール箱を手に持ちながら、違和感のようなものを感じていた。

 僕の人生の中に一瞬だけ現れた黒ベストの男。奴の本当の目的は、実は他にあるのではないだろうか?

 黒ベストの男が所属する『日本アウトベイディング』は、宇宙の外側から我々を脅かす存在である《イレギュラー分子》から人類を守ることか目的だと男は言っていた。しかし僕は彼の言うことを信用していない。あの男には何かがある。その根拠を言い表すことはできない。ただ、動物的本能がそう告げているのである。

 僕は財布の中から、黒ベストから渡された名刺を取り出した。

 名刺には『日本アウトベイディング 等々力敦史』と記され、その下にはローマ字でTodoriki Atsushiとあった。名刺の上部には、砂時計をモチーフにしたようなシンボルマークが描かれている。だがこのシンボルマークは、よく見ると砂時計というよりも、二つの円錐形を繋げただけの形にも見えた。一つの円錐の頂点に、上下逆にしたもう一つの円錐の頂点が触れているような形。それは砂時計ではなく、何か別のものを表しているようにも見えた。

 その図形に、僕はどこかで見覚えがあった。最近ではない。子供の頃に、それもこの部屋のどこかで見た記憶がある。

 周囲を見回した。様々な本が収納されている本棚に目が留まる。

 僕は本棚に並ぶ本を一冊一冊順番に確かめていった。そして、棚の最下段、ひっそりと息を潜めつつも少しも存在感を隠しきれていない十数巻もある学習辞典の中から、背表紙に『宇宙』と書かれた一冊を引っ張り出した。これは昔、穴が空くほど読み尽くし、僕の人生を変えることになった一冊である。この本に出会わなければ、太陽よりも大きな星が無数にあることをクラスで話して笑い者にされることもなかったし、宇宙物理学者を目指すこともなかっただろう。

 その想い出の学習辞典を机の上に置き、中を開くと、カビと埃の混じった異臭が鼻をついた。構わず、過去の記憶を頼りに目当てのページを探し続ける。

 程なくして、それは見つかった。

 ミンコフスキー時空と呼ばれる、二次元の空間と一次元の時間を表した図形がそこに描かれていた。それはまるで砂時計のように、二つの円錐を組み合わせたような形だった。下側の円錐には「過去光円錐」、上側の円錐には「未来光円錐」と記され、それぞれの頂点が接する場所——砂時計でいうところのまさに砂が流れ落ちる点に「観測者」と記されている。

 黒ベストが渡した名刺に書かれていた砂時計のシンボルマークは、もしかしたらこの「ミンコフスキー時空」をモチーフにしているのかもしれない。だとしても、なぜこれをモチーフにしたのだろうか?

 ここで僕は、黒ベストの言葉を思い出した。

 ——しかしそれでも、この宇宙を観測することができるのはせいぜい『この宇宙の始まりまで』が限界であって、『それ以前の宇宙』も『この宇宙の外側にある宇宙』も観測することは不可能だということになります。少なくとも今のところは……。

 『それ以前の宇宙』というのが、「過去光円錐」と書かれている下の円錐部分で、『この宇宙の外側にある宇宙』というのは、砂時計の外側を指しているのかもしれない。

 それが何を意味するのかはわからなかったが、黒ベストの真の狙いに、確実に近づいて来ている手応えのようなものを感じていた。しけし、僕はそれ以上の手がかりを持ち合わせていなかった。知っているのは、等々力が所属する会社が『日本アウトベイディング』であるということと、彼らが宇宙外からの侵略者を常に監視しているという、この二点だけである。もしかしたら、その裏に隠された真の目的などというものはないのかもしれない。しかし何かが強く、僕の心に引っかかっていた。

 そのとき、母の呼ぶ声がした。きっと夕飯の準備ができたのだろう。

 子供の頃に出された貧相な食事を想像し、それほど期待せずに、僕はかつての自分の部屋を出た。



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