インサイド・アウト 第11話 幾望の月(1)
河口湖駅から二時間以上乗り継いで、僕は御茶ノ水駅へと戻ってきた。
駅前を流れる神田川の上に架かる橋の上で、星一つ見えない夜空を眺めていた。寂れた夜空に独りで漂う大きな月が、黒く濁った神田川に純白の小さな影を落としている。その上を通る立体交差は、列車が走り去った後の余韻を、まだ少しだけ残していた。昨日と同位置、同時刻に、そこから見える景色を眺めて立っていると、つい先ほどまで《青木ヶ原樹海》を彷徨っていたことがまるで夢の中の出来事だったかのような錯覚に陥った。
それから僕は、喫茶『ロジェ』に行った。そこに《左右対称の顔の女》がやって来るかもしれないという、淡い期待をもって。
喫茶店の扉を開けると、いつものコーヒーの香りと聞き慣れたジャズが快く迎えてくれた。中はそれほど混んでいない。大型連休の最後の夜ということもあって、客は早々に家路についたのだろう。
あの日、あの女と話した二名掛けのテーブル席がちょうど空いていた。僕は吸い込まれるようにその席に座る。コーヒを注文するついでに、あの日、この喫茶店で失くした文庫本が届いていないか店員に訊いてみた。しかし返って来たのは良い返事ではなかった。そのような忘れ物は店では預かってないと言われた。だとすると僕はあの本をどこで失くしたのだろう。タイトルも、大まかな内容すらも思い出すことができなくなっていた、あの《忘れ去られた本》を——。
コーヒーの上に渦巻く白い湯気を観察しながら、あの日、左右対称の顔の女が言っていたことを僕は考えていた。
——あなたはこれから絶望に陥ることになります。二度と抜け出すことができないと思うほどの大きな絶望の穴に。
その絶望の穴とは、まさにこれまでの一連の出来事のことを指していたのかもしれない。仕事で追い詰められ、正常な思考ができなくなり、自死を試みたここ一ヶ月のことを指していたのだ。
でも、僕がこうなることをあの女はどうしてわかったのだろうか。
女はこうも言っていた。
——他ならぬあなた自身の選択によって、今まで以上の絶望がやがてあなたの前に立ち塞がるでしょう。すでにあなたは選択してしまっているのです。そう遠くない将来、二度と抜け出すことのできないと思うほどの大きな絶望に陥ることを。
女の言った通り、幼い頃から今までの自分の生き方を振り返ってみると、不思議なことにまるで最初からこうなることが決まっていたかのような感覚になった。学校生活はうまくいかず、家の中でさえも居場所を見つけられず、常にどこかに逃げ場を求めてきた僕の人生は、こうなることの布石であり、伏線であったかもしれないとさえ思えた。
椅子に座り、ただ思考の流れるがままに任せた。反芻する思考の末、やがて僕は何も考えられなくなった。店内に流れているはずの聞き慣れたジャズは、一切耳に入って来なくなった。カウンターから漂ってきているはずの淹れたてのコーヒーの香りも一切感じない。まるで全ての感覚を奪われたかのように、五感は錆びて濁っていた。
喫茶店の時計の針は十時を過ぎていた。客は、いつのまにか僕一人だけになっていた。店員の後片付けする音が、店内に不自然に響き渡る。
結局のところ、女は、現れなかった。
閉店の時間だと店員に声を掛けられるまでの間、僕はずっと《左右対称の顔の女》が現れるのを待ち続けた。
富士山の麓に比べると、夜風はそれほど冷たくなかった。そう感じるのは気温の差によるものなのか、それとも単に自分の感覚が死んでいるのかはわからない。
あきらめて、自宅マンションの方角へと進んだ。
考えてみると当たり前のことだった。あの女に会おうと思っても、そう簡単に会えるわけはないのだ。《黒ベストの男》が言っていたように、もし仮にあの女がこの宇宙の外側からやって来た超越的な存在だとしても、都合よく僕を探し当てることができるほど万能なわけがない。僕が今ここにいることなど、誰にもわかるはずがないのである。
……いや、一つだけ例外があった。あの黒ベストの男にはそれが可能だった。彼が所属する『日本アウトベイディング』であれば、世界中を監視するシステムによって、いま僕がここにいることでさえも、その辺の監視カメラやスマートフォンの位置情報をもとに確実に把握していることだろう。もっとも、そこまでして監視するほどの価値を、僕は持ち合わせてはいないけれども。
そういえば、あの黒ベストの男——等々力は今頃どうしているのだろうか? 《左右対称の顔の女》の翌日に《黒ベストの男》と立て続けに会った一ヶ月前のあの日のことが、もう遠い過去のことのようだった。
喫茶店を出てから十五分ほどで、自宅マンションに到着した。エントランスに入り、ポストを確認することなくすぐにエレベーターに乗った。四階まで昇る時間が、やけに長く感じられた。
四階でエレベーターを降り、部屋に続く通路の途中で、隣に見える小さな二階建てのアパートを見下ろした。僕が以前暮らしていた家賃二万円のアパートから、懐かしい白熱電球の明かりが漏れている。その暖かい光が妙に懐かしく感じられた。明日仕事を休み、それから万が一仕事を辞めることにでもなれば、この1LDKのマンションを引き払わねばならなくなる。そうしたら、またあのアパートで暮らせばいいのかもしれない。そう考えると、一気に肩の荷が降りた気がした。
四〇四号室の扉の前に行き、鍵を差して反時計回りに回した。しかし、いつもの手応えは感じない。期待していた「カチリ」という乾いた音は、どこからも聞こえてこなかった。
もう一度、鍵を反時計回りに回す。やはり音は鳴らないし、手応えもない。オートロックであるはずの扉の鍵は、なぜか閉まっていなかった。
恐る恐る、静かにノブを回すと、やはり鍵は開いている。そのまま扉をそっと開くと、部屋の中から光が漏れた。電気が付いている。そして玄関には女性用のパンプスが綺麗に揃えられている。ありふれた形。だが、僕はその靴をどこかで見た覚えがあった。
そっと中に入り、ダイニングキッチンを抜けてリビングに入ると、ソファの上に人影が見えた。左手で文庫本を読み、右手でコーヒーカップを揺らしている。ガラステーブルの上にコーヒーをそっと置くと、その人は僕の両目を見て、静かに微笑んだ。
そこにいたのは、あの《左右対称の顔の女》だった。
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