シェアハウス・ムラヤ 第6話
「なかなか、いい所がないなぁ」
彩香はソファの左端で膝を立てて「体育座り」のような恰好で、スマホを眺めている。
「彩香ちゃん、お仕事探してるのね」ゆりえは、キッチンから彩香に答えた。「焦らなくていいんだから。ゆっくり探してね」
家賃だって、と言いかけたゆりえを、彩香は、ダメだよ、と制した。
「大丈夫だよ。ある程度貯金もあるんだから。そもそも、取り崩さないもん。来月中には絶対見つけるんだから」
ゆりえは、無理しないでね、と言い、ふと思い出して言った。「中谷さん、いつでも相談してくださいって言ってたわよ。中谷さんには?」
「中谷さんには」彩香は下を向いた。「中谷さんには、もう迷惑かけられないよ。職場から契約途中で逃げ出すのを、お手伝いしてもらっちゃったんだもの。中谷さんはそう言ってくれていても、もう申し訳なくてお願いできない。もしまた次、あんなことがあったらって思うと」
数時間後。
今度は弥生がソファの同じ場所に、先ほどの彩香と同じ恰好で座っている。
「ねぇ、ゆりえさん。ここだけの話なんだけど」
小声で言う弥生に、ゆりえも小声で、何?と返した。
「彩香がうちの会社で働けないか、今ちょっと相談して回ってる」
ゆりえは驚いて、声に出さずに、うん、と頷いた。
「まだ相談し始めたばかりだから、何とも言えないんだけど。でも私の同期や懇意にしてる人達が、いろんな部署でトップの方にいるから。どこかあるんじゃないかって」
そう言うと弥生は「体育座り」の膝をぎゅっと抱いて、長身の体を小さく縮めた。
「今回のことで、何か私、グサッときちゃって」
「弥生ちゃんが?」
ゆりえは聞き返した。
「彩香のあのメモ… あれを見たときにね、自分が今までやってきたことを思い出したの。私ゆりえさんに、私はこんな風な管理はしていない、みたいなこと言ったでしょう」
ゆりえは、頷いた。
「でもね、自分はしていないつもりでも、どうだったんだろうって。私はいろんな他社の人に、仕事をお願いすることがよくあるのね」
「下請け企業に?」
弥生は、浮かない顔で頷いた。「そうは言わないけどね。協力会社さん、っていうかな。下請け…でも実質はそうなのよね」
「そういう協力会社さんにね、納期を、もう少し頑張ってもらえませんか?なんて言うことはよくあるの。コストの問題でね。もちろん低姿勢で、お願いするよ。でもやっぱり、どうしてもこちらの立場の方が強い。向こうは飲んでくれる」弥生はうつむいて続けた。「で、間に合わせてくれる。その過程で、向こうがどういう風にやってくれたかまではわからない」
ゆりえは、弥生が何を言いたいのか、次第にわかってきた。
「その協力会社さんが、さらに下の、彩香ちゃんみたいな人に、無理言ったんじゃないかって?」
弥生は、そう、と頷いた。
「そこまでは、こちらは知らない、というか関知するところじゃない、と思っていたの。でも、どんな無理をして、無理をさせて、間に合わせていたのかって。そういうことを私、全然リアルに理解してなかったんじゃないかって」
ゆりえは頷いて、ソファの弥生の隣に座った。
「彩香ちゃんにいいお仕事、あるといいね」
弥生は頷いた。「うん、待遇の面でも、できるだけよくできないかって模索してる」
「すごい。弥生ちゃんそんな交渉できるのね」
「長年この会社で、やってきているからね」そしてまた、子どものように膝を抱えた。「体制側の人間なの。良くも悪くも。もし彩香に仕事を紹介できたところで、それがいいことなのかもよくわからない。本当は、もっといろいろなこと、根本的に解決できたらいいのにね」
2人はしばらくそのまま黙っていたが、ゆりえが気分を変えるように声をかけた。
「コーヒー淹れるね。弥生ちゃん、飲む?」
うん飲む、と弥生は顔を上げて言った。ゆりえはキッチンへ行き、ドリップコーヒーの袋を取り出した。
「そういえば、この間のスナックはどうだったの?」
ドリップコーヒーにポットの湯を注ぎながら、ゆりえが聞いた。
あー!と弥生は笑顔になった。「まだ、話していなかったね」
「楽しかったよ、『やすらぎ』。カウンターだけの明るいお店で、けっこう年配のママさん…70くらいかな。すごくお料理が美味しくて」
「お客さんは?弥生ちゃんと山村さんの他に、何人くらいいたの」
「あと3人かな。皆顔見知りで、山さんと同じくらいのおじいさんね」
と弥生は笑った。
「皆おじいさんだったのね。弥生ちゃん、もてたでしょ」
コーヒーを差し出しながら、ゆりえが言った。
「まぁまぁ、ね」弥生は苦笑いした。「ちやほやもされたけど、途中からお決まりのというか…まぁ昭和的な、あれよ」
「セクハラ?」ゆりえは眉をひそめた。
「ボディタッチとかは、ないよ」弥生は笑って言った。「言葉だけね。俺が嫁にもらってやろうか的な。愛人はどうだとかね」
「嫌だねぇ」ゆりえは眉をひそめた。
「でも何か、そういうの久しぶりって感じだったよ。今絶対ないもんね。懐かしさすら感じた」弥生は笑っていた。「楽しい雰囲気の中で、だったし。皆さん、いい人だしね」
ゆりえは、ただ頷いた。ゆりえも昔、何度そんな言葉を浴びただろう。でも、悪気もなく出てくるそういう言葉に、怒るという選択肢はなかったのだ。「やすらぎ」での弥生も、きっと同じだろう。
「山さんに、今度ゆりえちゃん連れてこいって言われたんだけど。行く?」
「私は遠慮するわ」ゆりえは笑って即答した。「お酒も苦手だしね」
「そっかぁ。あ、あと、拓磨はどうだって聞かれた。若くてかっこいい兄ちゃんだって山さんが宣伝したら、ママが盛り上がっちゃってね」
「えぇ。なんか気が進まないな」
ほどなくして帰ってきた拓磨にその話をすると、表情を変えずぼそっとそんな風に言った。
「何か、いじめられそうじゃん。じいさん達に」
「まぁね。それは否定できないけど」
弥生が言った。若い拓磨に対して、女性の話が出されることは目に見えている。
「『やすらぎ』のママさんが、拓磨くんに会いたいそうよ」
ゆりえが口を挟んだ。拓磨は、ふーん、と頷いた。
「行くだけ行ってみようかな」
「ほんと?」
弥生が驚いた声を上げた。
うん、社会勉強、と拓磨は笑って言った。
「ママ。今日は何作ってるの?」
「ミルフィーユとんかつと、魚のフライ」
鉄平の質問に、彩香は笑顔で答えた。
彩香は少し前に、夕食当番に復帰した。今日は「オーケイ」のミールキットからミルフィーユとんかつとみそ汁、とんかつの量が足りないので追加で、生協から購入した魚のフライもある。
ミルフィーユとんかつと魚のフライは、どちらも衣がついた状態の冷凍食品だ。そのまま油で揚げれば良いので、いちから作るよりはるかに楽だ。
「ママの作るフライは最高だよね」
鉄平が、切れ長の目を見開いて言った。
「あのね、鉄平」彩香は天ぷら鍋の温度を確かめながら言った。「これは冷凍食品で、ママは揚げるだけなの。ママが作ったわけじゃないんだ」
「そんなことないよ。ママが心をこめて、ジュージュー揚げてくれるんだから」
鉄平は目をきらきらさせている。
「そうね、心を込めて揚げてる」彩香は笑って言った。「それは、間違いない」
ミルフィーユとんかつと魚のフライは、全員であっという間に食べ終わった。多めに揚げたつもりなのに、もっと揚げればよかったね、と彩香は言い、皆は、美味しいからたくさん食べちゃった、と満足げに話して、満腹のためか誰も食卓を離れなかった。
彩香は、ママは洗い物をするから、と鉄平に風呂に入るよう促した。最近は鉄平は、1人で風呂に入る。
「ねぇ、拓磨くん」洗い物をしながら、彩香が拓磨に話しかけた。「弥生さんから、はるちゃんのこと聞いたの。ごめんね」
「いや」拓磨は少し驚いた顔をした。「謝ることないよ」
2人は、そのまま少し黙っていた。沈黙を破ったのは拓磨だった。
「どう思った?彩香さん」
「どうって」
彩香は慌てたように手を止めて、言葉を探した。
「すっごく、いいと思うよ!今度、連れておいで?はるちゃん。うん、呼ぼうよ!皆で、はるちゃんを囲む会しよう!ね?ゆりえさん」
拓磨はふっと吹き出した。「それはちょっと」
「なんでよ!」
勢いに水をさされた彩香は、怒って聞き返した。
「人見知りなやつなんだよ。俺みたいなのと違うんだ」
「まだ、付き合い始めたばかりなのよね」
ゆりえが横から、助け舟を出した。
「そういうこと」拓磨が笑って言った。
そっか、と彩香が戸惑い気味に頷いた。
「でも、ありがとう。彩香さん」
拓磨は、安心したように笑っていた。
「ねぇ拓磨くん。前から聞きたいと思ってたんだけど、どうしてこのシェアハウスに住もうと思ったの」
ゆりえが聞いた。
なんでそんなこと聞くの、と拓磨は返したが、どこかで、聞かれることをわかっていたような表情だ。
「初めてゆりえさんと会ったときに言った『実家みたいな大家族で暮らしたい』っていうのは本当。だから、いろいろなシェアハウスを探してた。大きい所やおしゃれな所や、いろいろあったけど…」
「若い人が集まってるキラキラ系のシェアハウス、たくさんありそうだよね」
弥生が口を挟んだ。
「そう、キラキラ系」拓磨は笑った。「でも何か違うなって。同じくらいの歳のやつらが集まって、楽しそうだけど…実家はそういうんじゃなかったから。親がいて、ばーちゃんがいて、小さいのがたくさんいて」
「このシェアハウスは、実家っぽくてよさそうだぞ、って?」ゆりえがいたずらっぽく聞いた。「お母さんみたいなのがいて」
「いやいや、そういうことじゃ…」拓磨は慌てて否定した。「でも、家庭に近いじゃないけど、いろんな年代がいて、子どももいていいなぁって」
「はるのことも、自分で話すと思わなかったけど、つい話してしまった」
拓磨はつぶやくように言った。
ゆりえと弥生は頷いた。
「私たちに言えるなら、もしかしたら実家のご家族にも、いつかはお話しできるかもしれないね」
ゆりえが言うと、拓磨は小さく首を振った。「それは、無理でしょ」
「少なくともばーちゃんが死ぬまでは、無理かな」拓磨は笑顔で、淡々と言った。「ばーちゃんに早く死んでほしいわけじゃないよ。大事だから、よけいに言えないんだよ」
ゆりえも弥生も彩香も、何も言えなかった。
鉄平が風呂から出てきて、ママ、と、何か騒ぎながら彩香を呼んでいる。彩香は、もう、自分でちゃんと拭きなさい、と小言を言いながら、バスルームに走った。
【第6話 了】 ※ 次回最終話