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小説|湯浅さんのこと〈1〉

 昔ノストラダムスという人が
「1999年7月に、恐怖の大王が降りてきて地球は滅びる」
と言った。私はその1999年に東京の大学を卒業して、社会へ飛び出した。

 飛び出したなんて、華々しいものではなかった。魅力的な企業は皆採用をしぼって、私たちにそっぽを向いていた。

 田舎の両親は、私に帰って来なさいと言った。官公庁、金融、教職、でなければアルバイト――選択肢が片手くらいしかない故郷に、私は帰る気はなかった。
 東京には人も物も職業も、あらゆる選択肢であふれている。ここで、私はひとりでやって行きたかった。

 就職難の中情報システム企業だけが、気前よく学生を大量採用した。私はそれに照準をしぼり、システムエンジニア(SEエスイー)として内定をもらった。ウィンドウズもろくに使えない文系学生の私を、周囲の皆が心配した。当の本人だけが、何の心配もしていなかった。
 こんな時何の根拠もなく気楽に、それを通り越して能天気に
「まあなんとかなるよ」
と考えられることが、私の長所でもあり欠点でもあった。


 4月になり、私は入社した。早速数十人の同期と共に、研修が始まった。コンピューターシステムのことなど全くわからないのは、他のほとんどの同期も同じだった。3か月をかけて私たちは、みっちり研修を受けることになっていた。数十人がひとつの教室に集まって、まるで専門学校か何かの同級生のようだった。

 研修の講師は外部の研修会社から派遣された、ハラダという30過ぎの講師だった。ハラダ講師は、私たちをぐるりと見渡して言い放った。

「君たち、SEは知的な仕事だと思っているだろう――違うぞ。肉体労働だからな」

 もちろん、本当に肉体労働のはずがない。そんなことを言ったら、実際肉体労働をしている人達に叱られる。
 しかしこの言葉の意味を、私は近い未来に実感することになる。

 研修は1か月ほどで座学を終え、グループワークが始まった。
 その頃になると、ちらほらと噂が耳に入るようになった。
 20代の若い男女が大勢いっせいにひとつの「箱」の中にほうり込まれたら、どうなるかはわかりきっている。誰は誰が好きらしい、女子では誰が一番人気らしい、誰と誰はつきあっているらしい……

 私には学生の頃からつきあっている、ミヤタくんという彼氏がいた。2つ年下の大学生だった。とんでもなく頭が良くついでに見た目もいい彼を、私は秘かに自慢に思っていた。
 それと関係あったかなかったか、私がその「箱」の中の恋愛レースに呼ばれることはなかった。


「うわあ、コンパイルエラー」
 私は頭を抱えた。グループワークで1つの事務プログラムを作っていて、各々担当部分を作成している。私はやっとの思いでひと通りソースコードを作成したが、コンパイル(ソースコードから稼働できるプログラムへの変換)をしてみると、エラーだらけだった。

桐谷きりやさん、大丈夫?」
 腕を組んで優雅に私の背後に立ったのは、ナイトウさんだ。
「まずは、変数の定義を確認しよ。あとはピリオドを忘れていないか、IF文を『END IF』で締めくくっているか――」
「あっ、ここ『END IF』忘れてたあ」
 ナイトウさんは「ふふ」とエレガントに笑った。低めによく響く声が美しい。
「桐谷さん、テンパりすぎ。あまり長々とソースコード書く前に、小さい単位で確認した方が、エラーの原因も特定しやすいよ」
 ありがとう、と私は礼を言った。ことごとく不出来な私は、同じグループの彼女に世話になりっぱなしだ。

 ナイトウさんは同期の中でも、プログラミングの習熟度が高かった。グループの他のメンバーも、私ほどではないが彼女に「おんぶに抱っこ」だった。

「どう、進んでる?」
 ハラダ講師が、私のモニターを覗き込んだ。傍らのナイトウさんはクールに「順調です」と告げた。
「1999年かあ。ついに来たね」
 ハラダ講師は、コンパイルした私のプログラムのサンプルデータを見つめて言った。データは全て「1999.05.20」など、今年の日付がついている。
「地球は崩壊するのかね。皆、今のうち、悔いのないように生きないとね」
 歌うように言って去る彼を、ナイトウさんはふっと笑って受け流す。

 「箱」の中の恋愛ゲームで、ナイトウさんは異彩を放っていた。
 すらっとした長身に、クールで端正な美貌。そしてそれを裏切るような、推定Fカップのダイナマイトボディ。リクルートスーツの上からもはっきりとわかるそれは、側に立たれると同性の私でもドキドキするほどだった。
 彼女はどうやら3,4人の男子と関係を持ったらしく、当然のように水面下でイザコザが起きていた。あろうことか、ハラダ講師もそれに参戦している始末だった。地球崩壊に先がけ、彼のモラルが崩壊していた。

 私はただ外側から、それを面白おかしく眺めた。あの知性とクールな美貌にFカップでは、やむを得ない。グループワークでさんざんお世話になっている彼女に、私は好感を持っていた。噂の一部始終を頭にインプットして学生時代の友達への土産話にすることも、もちろん忘れなかった。噂話と悪口は別コミュニティでやるのが、私なりのモラルだった。


 やがて3か月が経ち、かの1999年7月がやってきた。
 恐怖の大王は降りて来ず、地球は滅びなかった。
 その代わり私たちは皆ちりぢりに、それぞれの部署に配属された。

 会社は、大口の顧客を持っていた。7割の部署がその顧客の仕事に従事していた。彼らの巨大システム構築は業務ノウハウが確立されており、新人が理解を深めていくのにふさわしかったはずだ。
 しかし私が配属されたのは、残りの3割の中でも特に新規事業を扱う、名称もそのまま「新規事業部」だった。

 配属前の懇親会で、血気盛んな新規事業部の営業課長が言った。
「うちの部署は、男女平等! しかも、若いうちからチームの先頭でバリバリ働けるよ」
 私は反射的に言った。
「すごいですね! ぜひ、やってみたいです!」

 大口顧客の仕事よりも、こっちの方が面白そうだと思ってしまったのだ。その言葉が配属希望とみなされ、私は新規事業部に行くことになった。

 男女平等の環境でバリバリ働きたいなんて、考えたこともなかったくせに。私はろくに見通しもなくその場の思いつきと勢いだけで行動する、全くの世間知らずだった。

 私が新規事業部に配属になると聞き、同期の情報通の女子が「ああ」とうなずいた。
湯浅ゆあささんがいるよね、その部署」
「湯浅さん? 有名なの?」

「うん、有名」
彼女は意味ありげに笑った。


〈つづく〉

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