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短編小説|ここから西へ18km
(3970字)
「仕事をサボる夢なんだ。昼休みに会社を抜けて、隣の駅まで行って、コートがほしくて店を何軒か見て――それでもう12時半くらいなんだけど。そこから今度は風呂に入りたくなって、近くの銭湯に行った。大丈夫、まだ間に合うって。地図アプリで会社までの距離を調べたら、電車で25分、18kmって出てきた。あれ、そんなに遠くまで来たかな、なんて思ったけど」
「風呂に浸かって上がったら、当然1時を過ぎてた。でも今日は周りも休みが多いし、外回りだと思われてきっと気づかれていない――大丈夫、まだ大丈夫。今ならまだ、誰にも気づかれずにそっと戻れる。そう思いながら、まだどこかに寄ろうとしているんだ。そこで目が覚めた」
ソファベッドに腰掛けて僕は、初夢の話をした。珍しく、くっきりと覚えている夢。
ふうん、と里香は手元に目を落としたまま微笑んだ。寝室からすぐのダイニングキッチンで皿を洗っている。
「里香にも会った。コートを見た店で――中学の頃の里香だったけど」
里香は、ふっと笑った。
「すごく可愛かった」
夢の中で会った里香はあの頃と同じように制服を着て、長い髪を耳の下で2つに結んでいた。僕を見つけると恥ずかしそうに目を伏せ、何も言わずに通り過ぎていった。
40歳をとうに過ぎた僕たちは、中学の同級生だ。里香はいつも合唱のピアノ伴奏を担当している、清楚な少女だった。さらさらの長い髪に控えめな笑顔。クラスでは、少なくとも5人の男子が彼女に思いを寄せていた。僕を含めて。
今の里香は額や口元にしわの目立つ、年齢相応の女性だ。正直なことを言うと、年齢よりも上に見える。40代になっても2,30代の頃と大きく容姿の変わらない者もいるが、里香はそうではなかった。
20代で里香と結婚した旦那は借金があり、やがて働かなくなった。里香は長年支え続けた末、数年前に別れた。同じ頃に大病を患ったという。今は回復し、東京で専門学校に通う一人娘への仕送りのために昼夜の仕事を掛け持ちしている。
里香の容姿の衰えを、同級生の男たちは皆嘆いた。
可愛かった里香があんな風になるなんて。時の流れは残酷だよな。
変わらないやつもいるのにな。〇〇とか。
〇〇はいい暮らししてるじゃん。年2回海外に行くんだって。40過ぎると、キープするにも財力が必要なんだよ。
里香は病気になっちゃったからな。もう大丈夫なのかな、元気そうにしているけど。 元旦那に、さんざん苦労かけられたのがたたったんだよ。
洗い物を終えた里香は寝室に来て、スマホを手に取った。
「どういう意味のある夢なんだろうね、亮樹くんのその夢。調べてみよう」
仕事をサボる夢、とつぶやきながら、里香はスマホに文字を入力した。
『今のあなたは仕事への責任や立場に大きな精神的ストレスを感じているようです。できることなら逃げ出したい、と思っていることを表します』
里香は、上目づかいでこちらを見た。
「……仕事、大変なの?」
「いや、順調だよ」
笑って答える僕に、里香はまた「ふうん」と笑った。
「ティッシュ、取ってもらってもいい?」
ソファベッドの枕元のティッシュを指差して、里香は言った。
箱ごと差し出すと「ありがとう」と言ってシュッと1枚抜き、小さく鼻をかむ。
――なますと栗きんとん、取って。あとローストビーフも。
正月の、ユウリの口調を思い出した。
正月は、妻のユウリの実家で過ごした。ユウリの両親ときょうだいと、僕らの4歳の娘。広い食卓に、僕とユウリは並んで座った。おせち料理のお重から離れたユウリは僕に、料理を取らせた。それには何の文句もない。しかしどうして、あんな横柄な言い方しかできないのだろう。にこりともせずに「栗きんとん、取って」なんて。ユウリはいつもそんな調子だ。
そんな不満を、口に出したりはしない。ひと回り年上の僕は、いつもユウリに対して下手に出ている。
ユウリの両親は、彼女の横柄な態度をたしなめる気はない。むしろ「年上の旦那を尻に敷いた、しっかり者の娘」と誇っているくらいだ。
ユウリの邪険な物言いを、最初は幼さ、若さだと思っていた。自分が年上なのだから、大きな心で見守らなくては、と。
しかし次第にそれは若さではなく、古くささ、鈍感さに感じられてきた。
結婚して子どもを成した女は強い、夫を悪し様に言う権利がある――そんな女性を「かかあ天下」などと持ち上げる風潮にはうんざりする。ユウリのような態度を取られ続けたら、気持ちが離れてゆくのが当然だろう。
40歳間近でまだ20代だったユウリと結婚が決まったとき、同級生たちは大げさなほどに騒ぎ立てた。若い女と結婚できてうらやましい、という反応がほとんどだった。中には「犯罪だ」などと言う者もいた。
男たちのそんな喧騒を、女の同級生は皆あきれ顔で眺めていた。すると里香が言った。
「でも、男性が若い女性を求めるのは自然なことじゃない。亮樹くんは、生物として非常に正しい選択をしたと思うよ」
そんな小難しいようなことを、いたずらっぽく笑って言った。
時折静かにはっきりと自分の意見を述べていた優等生の里香を、思い出した。容姿が衰えたとさんざん陰で言われている今の里香は、元からあった聡明さをなくしてはいないのだ。
でもそれだけではなかった。あの言葉といたずらっぽい笑顔に、少女の頃にはなかった何かを僕は感じた。
あの時はよくわからなかったけど、今はそれがはっきりとわかる。僕の心を波立たせる何か。
昨年同級生との飲み会の後、僕は里香とはじめて関係を持った。
――若くて、素敵な奥さんがいるのに。
亮樹くんは、生き物として間違っているんじゃない?
里香は僕を見つめて、そんなことを言った。あの時と同じように、いたずらっぽく笑って。
正月を過ごしてすぐに、僕はユウリの実家を後にした。ユウリと娘はしばらく実家で過ごす。普段からそうなのだ。週末やそうでない日でも、何かと実家に帰る。
いつも義父母に溺愛されている娘は、僕が帰る時もそっけないものだ。家ではいつもパパ、パパ、とくっついてくるのに。
ソファベッドの僕の横に、里香が座る。
里香の匂いがした。懐かしくて胸が沸き立つような、甘い香り。
ユウリは、甘い香りが好きではない。
ハーバルだかボタニカルだか、部屋も風呂もすべてそんな香りで満たしている。
「草むらみたいな匂いだな」と言うと驚いたように笑っていた。それも随分前だ。今は何も言おうとは思わない。どこか他人行儀な、僕の家の香り。
「仕事は今日まで休み?」
僕が聞くと、里香はうなずいた。
じゃあ、と次の言葉を言おうとする僕を里香は制した。
「今日中に帰りなさい。ご家族、明日には帰ってくるんでしょ」
「明日朝早くに帰れば、大丈夫」
「仕事ももうすぐ始まるでしょ。逃げ出したくて、仕方のない仕事」
「だから仕事は順調だって」
「だったら」
里香は、窓の方へ目を向けた。
強い西日が差している。僕の家の方向。
僕は、里香の肩を抱きよせた。
「今日中に帰りなさい」
抑えた静かな声で、里香は繰り返した。
それでもまだ、時間はある――そう言い返す代わりに僕は里香の唇をふさいだ。
里香の乳房に触れようと、服の中に手を入れる。服と肌の間からさっきよりもっと濃厚な、女の匂いがした。
手に吸いつくやわらかい乳房を、僕の手は夢中で貪った。里香は観念したように、微かなため息をもらした。
挑むようにかたく張りつめたユウリの乳房には、もう長いこと触れていない。彼女は娘が生まれてから、僕と交わる気などまったく無くしたようだ。
「生物としての正しさ」は、いったいなんだったのだろう。僕は今、おそらくもう子どもを産むことはない里香の乳房と体を、こんなにも欲している。
「外に出たがってる」
僕の下腹を手のひらで包んで、里香は優しく言った。里香を求めて突き上げるそれを、僕はジッパーを下ろして解放した。
里香は黙って床に座り、手に取ってそれを口に含みはじめた。
それははじめてのことではなかったが、いつも僕から頼んでの行為だった。里香がこんな風に自分からするのははじめてだった。
うつむいて僕を口に含む里香と、夢の中で、目を伏せて通り過ぎた少女。
体がかき回されるような快感の中、2つの姿が重なった。
混乱する頭から僕は、少女を必死で追い払う。
里香はいつからこんな風に、自分から男を求めるようになったのだろう。
これまで、どんなことがあって。元旦那や、もしかしたら他の誰かに導かれて。
昔は、清楚で美しい里香にただ憧れていた。
でも今僕が欲しいのは、その頃の里香ではなかった。
聡明さや気品を残しながらいつの間にか好色さを身につけた、今の里香だった。
僕は里香の服を脱がせ体を抱いて、里香の中に入った。
「こうしたかったんだ。もうずっと」
荒くなる息で、僕は精一杯の抑えた声でささやいた。
私も、と里香が吐息のような声で答えた。
里香のアパートを出ると、だいぶ夜がふけていた。
アパートの前に、新しい飲食店ができている。
前来た時に、あっただろうか。地図アプリを開いてこの辺りを表示した。
なぜか、ここから僕の家までの経路が表示された。
電車で25分、距離18km。
どこかで見たような数字だが思い出せない。
僕は駅へと歩き始めた。
ふいに、娘の顔が見たくなった。
帰ったらまた僕にくっついてきて、いつもの笑顔を見せてくれるだろう。愛おしい娘だ。
今度の週末はユウリが出かけるから、2人で動物園に行こう。いや、寒いから水族館がいい。きっと喜ぶだろう。
ここから西へ18km。
僕の家へ。
大丈夫、まだ大丈夫。今ならまだ、誰にも気づかれずにそっと戻れる――そう思っている。
〈終〉