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小説|湯浅さんのこと〈2〉

 私は、新規事業部に配属された。あの血気盛んな課長を筆頭に3,40代の上司達。その下には同年代の社員が多かった。
 私は何人もの上司、先輩達に挨拶をして回った。そのうちに、例の「湯浅ゆあささん」の順番になった。

「はじめまして、新人の桐谷きりやです。よろしくお願いします」
 噂の「湯浅さん」は椅子をくるりと回して、座ったまま私を見上げた。2年上の先輩らしい。少し偉そうだと、私は思った。
「ああ、よろしくね」
 早口で、特徴的な話し方。けっこう声がいい。

「新人研修、またハラダだったんでしょ。あいつ最悪だよね」
「ああ――ちょっと『俺様』っぽかったですね」
 大切な顧客の新人に手を出すやから・ハラダ。湯浅さんの代でも、何かやらかしたのだろうか。
 無難な受け答えをしながらそんなことを考えていると、湯浅さんは「ああ」と思い出したように言った。

「敬語、やめてよ」
「えっ」
 図々しい私でも、先輩に「ため語」を使うことはほとんどない。ましてやここは学校やサークルではなく、会社だ。

 戸惑う私を見て、湯浅さんはにやっとした。
「敬語じゃない方が、仲良さそうじゃん。敬語だと、仲悪そうじゃん」

 私は、思わず吹き出した。
 なんて、ちゃらちゃらした人なんだろう。


 新人研修で巻き起こっていた「箱」の中の恋愛ゲームは、配属されて終わるどころか、スケールを増していた。
 新人の大量採用は数年前から始まっており、先輩達も含めると、会社には何倍もの若い男女がいることになる。そうなることも、当然といえば当然だった。

 湯浅さんはその中でも、独特の存在だった。同期のナイトウさんと同じように、特定の相手がいなかった。
 彼と噂になっているのは――私が知っていただけでも、隣の部署の先輩の女性、派手めな事務派遣社員のお姉さん、そして早くも、私の同期の女の子まで。
 彼女らのどれがただの友達で、どれが深い関係なのかはよくわからない。でも確実にそういう関係の女性も、いるのだろうと思った。


 もうひとつ独特なのが、仕事への取り組み方だった。

 他の若手社員は皆、裏でどんなに恋愛に興じようと、仕事は真面目だった。
 上司から与えられた仕事に全力で取り組み、リーダーになればチームをまとめることに力を注ぐ。残業もいとわない。退勤は22時頃が当たり前。忙しい時期は毎日終電帰り――そういう姿勢で臨むのが「良い社員」。この頃の常識だった。
 給与も評価も男女平等な会社だったから、女性もそういう働き方をした。皆、そこからはみ出してはいけないと思っていた。

 湯浅さんは、全くそこに同調しなかった。
 帰りはいつも定時。たまに残業をしても1時間程度。
 さらに湯浅さんは、副業をしていた。
 業界では珍しく、副業の認められている会社だった。例の大口顧客と関連して、講師など外部の仕事を請け負う人が多いためだった。
 湯浅さんはそれとは関係なく、独自に副業をしていた。「そこそこ儲かっているらしい」という噂だし、本人もそれを吹聴していた。
 それだけならいいが、彼は業務中に平気でその副業に関する作業をしていた。副業すること自体は問題ないが、仕事中に内職するのはよろしくない。

 上司の間では、当然問題になっていたはずだ。
 だけど私の目には、湯浅さんは黙認されているように見えた。
 以前注意された時、就業規則やら労基法やらを持ち出して、猛烈に論破したとか、しないとか。そんな噂を聞いた。
 上司も面倒くさくなり、黙認というより放置しているのかもしれなかった。

 一方後輩達は、そんな湯浅さんを面白く思って近づいた。
 男子達は、湯浅さんの副業に興味を持った。ネットビジネスだか投資なんとかだか、そんな話を聞きたがって集まる後輩達を、湯浅さんは可愛がった。しょっちゅう飲み会を開いて、講釈をしているようだった。

 鼻持ちならないような憎めないような、王様のような人が湯浅さんだった。


 仕事中、パソコンのタスクバーにある「メッセンジャー」のアイコンがチカチカした。
 メッセンジャーは、ショートメッセージを送れるフリーソフトだ。会話のようなやり取りをするなら、社内メールよりこちらの方がずっと使いやすい。
 仕事をしながら、もしくはしているふりをしながら、社内の仲のいい人と会話ができる。若手社員は皆こっそりインストールしていた。

 メッセージの主は、湯浅さんだった。
「今日のお昼、どう?」
 湯浅さんから誘われるのは、はじめてだった。
 私は一瞬ひるんだが、すぐに返事を返した。
「いいですよ!」

 私は、決まった相手と毎日ランチをすることが苦手だった。昼休みは気ままに過ごすのが好きだった。同期を誘ったり、ひとりで外に食べに行ったり。そんな私に、たまの気まぐれなお誘いはちょうどよかった。

 誰が誰とランチに行こうが、とやかく言われないのがこの会社の良さだった。皆仕事に忙しい。噂話くらいはするだろうが、それを仕事で引きずったりはしない。そんなあっさりした雰囲気が、私には合っていた。

 湯浅さんは、どんな人なんだろう。一度、ゆっくり話をしてみたかった。


 会社は、賑やかな街にあった。下町というには大きく、活気にみちた街だった。庶民的な飲食店が立ち並んでいて、食うと飲むのにだけは困らない。

 会社の近くにある定食屋に、私達は入った。
 注文するとすぐに出てくる日替わりの生姜焼き定食を食べながら、私は湯浅さんと向かい合った。

「桐谷さんは、毎日遅くまで働いているんじゃない」
「はい――うん。そうしろって言われているわけじゃないんだけど、要領が悪くって。時間がかかっちゃって」

 敬語抜きは、まだ慣れない。
「残業する義務なんて、ないんだよ。仕事が終わっていなくても定時になったら、とっとと帰ればいい」
「なかなか、そうも……」
 私は言葉をにごして、味噌汁を一口飲んだ。

 煮え切らない私に、湯浅さんは話を変えた。
「桐谷さんって、彼氏いるんでしょ」
「いるよ」

「大学生なんでしょ、年下の。将来有望な」
「そんなの、わからないけど。でもしっかりした人だよ。私なんかよりずっと」

「ふーん」
湯浅さんはかすかに鼻で笑いながら、水を飲んだ。
「いいじゃん。ま、どうせ浮気するだろうけどさ」

「しないよ」
私は吹き出した。実際、そこまでの自信はない。でもそう言い切った方が、面白い気がした。

「いや、する。確実に」
湯浅さんは、楽しそうに言った。
「確実に浮気するだろうけどさ。でもそこにさえ目をつぶれば将来安泰じゃん。よかったね、あてになる彼氏で」

 楽しそうに言う湯浅さんに、別に腹は立たない。でも何を言っているのかと、私は思った。まだ二十歳はたちそこそこのミヤタくんの何をあてにしたらいいのか、私にはさっぱりわからない。

「湯浅さんは、彼女いるの」
私は、話の矛先を変えた。
「彼女?」

「――どうにかしないとね」
湯浅さんは、私の話を引き取るようにゆっくり言った。

 私は「?」マークでいっぱいの顔になって、思わずまじまじと湯浅さんを見つめた。
 湯浅さんは、たまらず笑い出した。
「これさあ」

「彼女いるの?って聞かれたらさ、『どうにかしないとね』って言うことにしてるんだよね。どっちとも取れるじゃん。いるとも、いないとも」

 私も、思わず笑った。

 本当に、なんてちゃらちゃらした人なんだろう。


〈つづく〉


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